奈良町FW(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・なんどもなんども奈良に来てるのに、「元興寺」は初めてです。


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真言律宗元興寺

630-8392奈良市中院町11番地0742-23-1377

日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが、元興寺(佛法元興の場、聖教最初の地)であるさるさわ池をはさんで北の興福寺、南の元興寺と平城京左京(外京)の台地に広大な寺地と伽藍を有した。平安遷都後も、この外京と東大寺、春日社一帯は南都の中心地であった。


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飛鳥時代以来、伝統の三論宗、(『大安寺流』に対し『元興寺流』)と法相宗(興福寺の北寺伝『御蓋流』に対し南寺伝『飛鳥流』)が主に学問されていたが、平安中期には衰えてしまう。むしろ真言宗に属する多くの僧を輩出した。その後、伽藍は荒廃し、堂塔が分離してゆくことになる。中でも伽藍の中央部、金堂、講堂など中枢部の北に当たる僧坊の地域に、東室南階大房が十二房遺って、その一室が特に極楽坊と呼ばれるようになる。この場所は奈良時代の元興寺三論宗の学僧智光法師が居住した禅室で、我が国浄土三曼荼羅(智光、当麻、清海)の随一である智光曼荼羅(掌中示現阿弥陀如来浄土変相図)発祥の地とする信仰が生まれた。極楽坊では嘉応3年(1171)頃から盛んに百日念仏講が営まれ、南都の別所的役割を担ったようである。その後、高野聖西行法師が極楽房天井の改築勧進を行ったとか、東大寺戒壇院の圓照実相上人が僧房改築の勧進をしたとか、西大寺信空慈道上人が僧房修理のため南市で勧進を行ったとか伝わる。要するに、遁世僧や律僧の大切な道場として再出発したようである。治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちによって、興福寺大乘院(今の奈良県文化会館あたり)が焼失し、元興寺禅定院に寄生した事によって、特に極楽坊は大乘院が支配することになり、住持は光圓上人を初代としてその法流が八代続いた。寛元2年(1244)には極楽房を中心に大改築が行われ、元興寺極楽坊本堂(極楽堂)と禅室(春日影向堂)の二棟に分離された。この事から極楽房は東向き(旧元興寺は南向き)の独立的な寺院となったようである。さらに、文永五年(1268)には約5,000人に及ぶ道俗の勧進からなる聖徳太子立像(十六才孝養像)、弘安年間に弘法大師坐像が造立され、聖徳太子と弘法大師に係わる寺院としての性格を確立していった。この時点で、恐らく西大寺叡尊思円上人や東大寺聖守中道上人の影響を多大に受けたようである。応安年間(1368~1374)に興正菩薩叡尊の末資である大安寺巳心寺開山、光圓道種律師が入寺し、極楽律院として結界され、応永年間(1394~1428)には、東大寺西南院四脚門を極楽坊正門(東門)として移築し、太子堂を新造し、本堂等も修理された。ここに初めて極楽院が成立したのである。永享8年(1436)『西大寺末寺帳』に第9世長老小塔院覚真悟妙上人の時に元興寺中の極楽坊が西大寺の末寺となったようである。が、興福寺勢力が強大な間はずっと大乘院の有力な末寺であり、その菩提祈願所(墓所)でもあった。江戸時代に入ると、幕府から100石朱印地を与えられ、西大寺役者を次々と輩出している。49世長老賢瑜栄順上人、51世長老尊信春識上人、53世長老尊覚春賢上人、57世尊静真覚上人、59世長老尊員真乗上人などである。この法流は明治五年の尊誓和尚で終わっている。明治期は、無住で、西大寺住職兼務預寺となり、堂舎は小学校(市立飛鳥小学校前身研精舎)や私立女学校(浄土真宗東本願寺経営の裁縫学校)などに使用されている。昭和18年に生駒山宝山寺より辻村泰圓和尚が特任住職として入寺し、同24年から堂宇の解体修理が再開、旧庫裡を極楽院保育所として移転改築して、同30年に重修の竣工を期に、寺務所が新築され定住することとなった。その後、昭和36年から境内防災工事、収蔵庫建設、(財)元興寺文化財研究所の創設など文化財保護活動を展開し、一方で、節分会、地蔵会、彼岸会などの法要を復興し、境内地も昭和40年に国史跡に指定された。寺院名称は昭和30年に南都極楽院から元興寺極楽坊に、昭和52年に元興寺に変更された。平成10年(1998)12月、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」のひとつとして登録された。これは、古都奈良すなわち平城京からの伝統を守り伝える史跡と国宝建造物を有し、その学問的な研究活動と、周辺住民が協力的に史跡遺産を保護してきた成果が認められたものと思われる。


・・・奈良公園の中心にある東大寺や興福寺は、どうしても賑やかになりがちですが、ここは「奈良町」ちょっと落ち着いた雰囲気です。


がん3


・・・なんと、ここで「かえる石」に出会うとは思っていませんでした。


主な行事

■2月3日  節分会(柴灯大護摩)

■5月8日  花まつり

7月7日  かえる石供養(大阪城蛙石)

■7月28日 肘塚(かいのづか)不動尊供養

■8月23日・24日 地蔵会(万灯供養、献灯奉納)

■春秋(3月・9月中日)彼岸法要



福かえる縁起かえる石

元興寺の北側に、どっしりと構えたガマガエルのような石があります。古くから有名な奇石で蛙石と呼ばれてきました。伝えによりますと、この蛙石はもと河内の在所の川縁にあったものを、太閤秀吉が気に入り、求めて大坂城内に移したものだといいます。また、大阪城落城の折には、この蛙石の下に淀君の亡骸を埋めたという説もあります。落城後、いつの頃からか大坂城のお堀端乾櫓に向う隅に移されました。その頃、この蛙石には奇怪な力があって、蛙石から堀に入水する人々が続いたり、堀の身投げして行方の知れぬ人も必ずこの蛙石の基に浮かんでくるとか、不思議なことがよく起こったそうです。人々から恐れられていた蛙石は、第二次世界大戦のドサクサでしばらく、行方不明になっていましたが、昭和31年にご縁があってこの寺に安置されるようになりました。現在は、国宝極楽堂に向って、彼岸花に囲まれて佇んでいます。中国では主に、太陽には鳥を、月にはガマガエルとウサギとを描いています。ガマガエルはもともと水の精と考えられていて、雨をふらすために月にいるのだと信じられていたようです。カエルは、傲慢さと愛嬌があり、動静両面が印象的な生き物です。蛙石と太閤秀吉、淀君、お堀にかかわる伝説などうなづけるものもあります。現在ではこの蛙石も以前にかかわった有縁無縁一切の霊を供養して極楽カエルに成就しました。転禍為福と申しますが、極楽堂に向って誓願をたてた極楽カエルは、今や「無事かえる」「福かえる」衆生の願いを聞いてくれます。


元興寺に安置されているかえる石であるが、この石は、江戸時代に奇石にまつわる話を集めた『雲根志』に“大阪城の蛙石”として載せられるほど有名な石である。その形状が蛙に似ているということで名付けられたことは疑いないところであるが、その数奇な歴史は、名前に似合わず非常に恐ろしいものである。元々この石は、河内の川べりにあった殺生石であったと言われている。それを豊臣秀吉がたいそう愛でて、大阪城に運び込んだところから因縁が生じる。大阪城落城の際に、亡くなった淀君の遺骸をこの蛙石の下に埋めたとされ、そのために淀君の怨念がこの石に籠もったと言われる。その後時を経てこの石はいつの間にか大阪城の乾櫓の堀をはさんだ対岸に置かれる。ここからさらに陰惨な言い伝えが広まっていく。この石のあるところから大阪城の堀に身を投げる者が後を絶たない。あるいはこの石の上に履き物を置いて身を投げる者が多く出る。さらには大阪城の堀に身を投げて死んだ者は必ずこの石のそばに流れ着くとも言われるようになる。要するに、大阪城の堀で死ぬ者は必ずこの蛙石に絡んでいくことになり、まさに死の象徴と言うべき都市伝説に発展した、実に不吉な石となったのである。そのような石がなぜ奈良の元興寺に安置されたのかは詳細はつまびらかではないが、第二次世界大戦の折の混乱で行方不明となったものが、昭和31年に元興寺に引き取られたことが記録に残っている。名の通った寺院の境内に置かれるとあって、当然過去の悪因縁やそれにまつわる諸霊の供養をおこなっているとのこと(現在でも毎年7月7日に供養が執り行われている)。それ以降は、災いをもたらす石のイメージのを払拭がなされ、“福かえる”や“無事かえる”の語呂合わせで、元興寺の縁起物として位置付けられている。

これに因んで京都府木津川市木津町鹿背山に住まわれる芸術家水島石根先生が蛙石土鈴を謹製奉納されました。お守りとして側に置いて下さい。


・・・もちろん、お土産として買ってきました。


【参考】アトリエやま

619‐0211京都府木津川市鹿背山南谷4番地0774-72-1323

彫刻家水島弘一さんが拓いたアトリエ鹿背山南谷の丘を芸術の制作の場とし多くの芸術家を育て続けている。「アトリエやまは、もはや「やま」全体が作品となっている現在は息子の水島石根、孫の太郎が制作に励んでいるアルテシカ(鹿背山若手芸術家グループ)の活動拠点としても場を提供している

水島石根さん「福かえる」は、チリの落盤事故を知り、作業員が無事にかえれるようにと水島さんが制作したかえるです。元興寺で無事家族のもとへかえれるよう毎朝2週間祈願をして現地に届けられたそうです。

石根さんは、木津川アートの審査員のお一人です。


【参考】「木津川アート」

日常の景色の中に作品を置くと、そこは非日常への入口です。「あれっ?!ここって、こんな景色やったっけ?」いつもは通り過ぎるだけの道も、じっくり見ると新たな発見があったりします。そんな地元の再発見や、魅力発信を目的として、この秋、京都府木津川市で「木津川アート」が開催されます。「木津川アート」は、木津川市主催のアートイベントです。2014年11月2日(日)から15日(土)までの2週間、木津川市内の曽根山・大里・相楽台・兜台のエリアをアートエリアとして、43組の現代アートのアーティストによる展示やワークショップが繰り広げられます。「木津川アート」は2010年から始まり、今回で4回目の開催となります。毎回、舞台を変えて、これまでに、数多くのアーティストの参加により市内のいろいろな場所で開催されてきました。


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元興寺文化財研究所・本部

630-8392奈良市中院町11(元興寺境内)0742-23-1376

当研究所は、昭和36年(1961年)元興寺極楽堂・禅室の解体修理と境内発掘調査の際に発見された約10万点にも及ぶ仏教民俗資料を独自で調査・整理をし、“どのように保存していくか”を研究することから出発しました。その当時からの経験を生かし実績を重ね、現在では“全国各地の多様な文化財を調査・研究する研究所”へと発展しました。

保存科学センター

630-0257生駒市元町2-14-8(大乗滝寺境内)0743-74-6419



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・・・奈良に行かれましたら、ぜひ「元興寺」に立ち寄られることをおすすめいたします。