奈良町FW(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・音声館オリジナル奈良の民話ミュージカル大和のカエルと河内のカエル子どもたちが主役のミュージカル9月21日(日曜日)(1)午前11時(2)午後2時出演劇団「良弁杉」。このチラシを見たことがきっかけで、奈良のカエル・スポットを探してみようと思い立ち、もちろん、「奈良町」散策を楽しみにして出かけました。


なら1


◆わらべうたの館【奈良市音声館】◆

630-8335奈良市鳴川町32-10742-27-7700

歌声による人づくり、街づくりをめざし、平成6年10月に奈良市が設立し、一般財団法人奈良市総合財団が指定管理者として運営しています。奈良県内に伝わる“わらべうた”の保存・普及を中心に、様々な活動を企画・運営しています。

●主催事業

わらべうた教室や劇団「良弁杉」では、年間をとおして活動している他、職員によるミニコンサートや館内でのギャラリー展示を開催しています。

当館では、有料で部屋の貸し出しをしています。発表会や演劇の公演向きの“ホール”や、舞踊・楽器等の練習向けの“プレイルーム”等があります。


なら2


むかしむかし、大和のカエルと、河内のカエルがいました。大和のカエルは、いっぺん河内の国を見たいものと、思うてくらしてました。同じように、河内のカエルも、いっぺん大和の国を見たいものと思うて、くらしました。ある時、大和のカエルは、ある人から、「河内を見たけりゃ二上山(北葛城郡 旧當麻町)へ登ったら、よう見えるぜ」と、教えてもらい、それなら、二上山へ登って見ようと、どんどん二上山へ向けて登って行きました。ちょうど、そのころ、河内のカエルも、ある人に、「大和の国を見たけりゃ、二上山へ登ったらよう見えるぜ」、教えてもらい、どんどん二上山へ登って行きました。そして、二ひきのカエルは二上山のてっぺんで、とんと出会いました。それぞれ思いきりせいのびをして、大和のカエルは河内の国を、河内のカエルは大和の国をながめました。ところがなあ、大和のカエルは、河内の方をながめて、「なんや、しょうもない。河内は、大和と同じやないか」と、どなりました。河内のカエルも、大和の国をながめて、「なんや、しょうもない。大和は、河内と同じやないか」、どなりかえしました。それから、二ひきのカエルは、こんなことなら、なにもわざわざ見に来るまでもなかったと、大和のカエルは大和へ、河内のカエルは河内へ、ひっかえして行きました。そのわけは、カエルの目玉は、うしろのほうについているので二上山のてっぺんで、くるりと、「まわれ右」をして見ないといけないのに、うっかりそのまま立ってながめたので、大和のカエルには、もとの大和が、河内のカエルには、もとの河内が見えたのです。


・・・「音声館」というネーミングが素敵です。



なら3


「鳴川町」の由来

今は暗渠になっているが、坂の下の音声館の北側には、川が流れている。その昔、群蛙が小塔院の僧の読経を妨げたので、神呪を唱えこれを止めさせた。後世、蛙の声を聞かなくなったので不鳴川(なかずがわ)と称したが、何時の間にか誤って逆に鳴川と呼ぶようになったという。

西山浄土宗紫雲山「安養寺」

630-8335奈良市鳴川町290742-22-5057

法如禅尼(中将姫)開祖で、室町時代に建てられた本堂は、県の文化財に指定され、昔は「横佩(よこはぎ)堂」と呼ばれており、これは中将姫の父藤原豊成卿が横佩右大臣と称されていたため。後に恵心僧都作と伝えられる阿弥陀三尊(本尊阿弥陀如来、左脇侍観音菩薩、右脇侍勢至菩薩)を安置してから「安養寺」と改称した。「安養寺」は別名を「大和善光寺」とも呼ばれている。本尊の阿弥陀如来坐像と観音・勢至菩薩像(いづれも平安時代の作)は奈良国立博物館に寄託されており、現在は別の阿弥陀如来像と、善光寺如来三尊像を安置している。


なら4


融通念仏宗豊成山高林院「徳融寺」

630-8335 奈良県奈良市鳴川町250742-22-3881

豊成の別宅跡。中将姫はここで少女時代を過ごし、継母にいじめられたと伝わっている。「安養寺」の前の南北に延びる道をちょっと南へ行くと、「徳融寺」がある。本尊は阿弥陀如来立像。元は「元興寺」の別院で、本堂の左前に歌が彫られた石塔(歌碑)が建っており、これは、松永弾正久秀が1560年(永禄3年)多聞城を築く時に持ち去ろうとした石塔婆で、「高林寺」に住んでいた連歌師の心前が次の歌曳き残す 花や秋咲く石の竹を詠んで、久秀に送ったら、連歌のたしなみがあった久秀が非を悟って、石塔を持ち去らなかったという。また、境内に市指定文化財「毘沙門堂」も在る。「徳融寺」は奈良時代の高官、右大臣藤原朝臣豊成とその娘中将姫の旧蹟で、豊成は南家武智麻呂(むちまろ)の子で、仲麻呂の兄である。境内の「観音堂」の裏に豊成と中将姫を祀る宝篋印(ほうきょういん)石塔が二基並んで建っている。実際の墓は別の場所に別々に存在しているが、ここでは仲良く供養塔として並んで建っている。なお、豊成公の石塔と中将姫の石塔の間にあるのが四面に仏像を浮き彫りにした鎌倉中期の四方仏石で、正面が薬師如来、そして、右回りに釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が彫られている。また、豊成公の墓脇の石柱には、歌舞伎「中将姫雪責」を公演する前ここへ詣でた片岡仁左衛門の名前が刻まれている。歌舞伎とのつながりもあるのだ。藤原鎌足から続く藤原四家(北家、南家、今日家、式家)の南家の右大臣藤原豊成の娘中将姫は747年 (天平19年)に生まれ、5歳の時に生みの母が亡くなった。そして、後妻に来た継母の「照夜ノ前」が悪女で、家来に命じて中将姫を崖の上から突き落としてしまった。それが写真の崖で、本堂の裏にあり、崖の上に「虚空塚」が在る。なお、突き落とされた中将姫は、常日頃の信仰の力に助けられ、太陽のごとく空中に浮かび怪我1つしなかったという。また、中将姫は継母から盗みの疑いをかけられ、雪の日に外で竹に打たれるせっかんを受けたとされる「雪責松」の跡もある。ここは実は中将姫の受難の色を濃く残す寺なのだ。中将姫ゆかりの寺院があるこの辺りは、江戸時代初期からあった木辻遊郭跡である。寺院のすぐ隣にも遊女が客待ちをした格子の古民家が今もわずかに残る。その中にいて、悲しい日々を強いられた苦界の女性たちにとって、仏の加護で救われたという中将姫像は、唯一の救いであったであろう。その神秘性と敬虔な姫の信仰の姿が、人々の心を動かし続け今に至っている。また「観音堂」には我が国最古の子安観音とされる子安観音像が安置されており、像は乳児を抱き上げた姿をしている。奈良町にある中将姫ゆかりの寺(誕生寺・高林寺・徳融寺・安養寺)の中では、この徳融寺が最も大きい寺院である。

・・・さて、このお寺でもっとも目立っていたのが、


なら5


吉村長慶

奈良新聞社は、幕末の「奈良町」に生まれ、地元では「三尺将軍」と呼ばれ、明治から昭和の激動の時代を生きた奇豪・吉村長慶の破格の人生を追った人物評伝『宇宙菴吉村長慶』を発行、全国の書店で発売しています。奈良市出身で、北欧・ノルウェー移住者の安達正興氏が、没後70年を経て資料も極めて乏しい中で関係者や資料を探し出し、郷土の偉人・奇人の78歳の人生の軌跡を、豊富な写真資料を添えて1冊にまとめました。長慶は質商・金融業、北浜の相場師として活躍し、稼いだ資金を生涯にわたって200を超える石造物の制作につぎ込みました。お抱えの石工を雇い、私費で佐保川などに橋を架け、石灯、道標、石碑、自像、墓標、磨崖仏などを奈良、京都、大阪、和歌山(高野山)の近畿

各地の神社仏閣に奉納。一方で、奈良市議、「宇宙教」の唱導者、長慶寺の住職、ルポ「清国事情」の執筆者、「世界平和会」の創設者、「畿内遷都論」の提唱者とさまざまな顔を持つ、地球的な視野で行動した独立自尊の思想家、一級の「実践的知識人」でもありました。その破天荒な生きざまは、閉塞感の中に生きる現代人に、活力を与えてくれます。

融通念佛宗「長慶寺」/630-8113奈良市法蓮町865-1

・・・またまた、宿題が増えてしまいました。

元興寺小塔院跡奈良市西新屋町45

かつての元興寺を起源とする真言律宗の小塔院です。大火前の「元興寺」は、南大門を入ると西に小塔院、東に大塔院があったそうです現在奈良市中院町所在の元興寺内の収蔵庫内に現存する国宝の五重小塔を安置する堂が存在した場所として1965年に国指定の史跡「元興寺小塔院跡」に指定されていますは江戸時代に建立された虚空蔵堂(仮堂)とが護命(奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧)の供養塔があるだけです。

・・・これから、「元興寺」に行ってみたいと思います。