◆旧川口居留地跡/西区川口1丁目5-19(本田小学校北詰)
1868年大阪開港と同時に、大阪市西区川口付近に設けられた外国人居留地があったエリア。旧大阪居留地、旧大阪川口居留地ともいう。居留地時代の建物は現存しないが、1920年竣工の壮麗な大聖堂である日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会(ウィリアム・ウィルソン設計、国の登録有形文化財)が当時の街の面影を伝えている。
江戸時代末期の安政五カ国条約(1858年)によって大坂(大阪)は、函館・新潟・東京・横浜・神戸・長崎と共に開港または開市(外国人に商取引を認めること)されることが決定されていた。時の政府はその時期を引き伸ばし続けてきたがついに1868年、東京・神戸・新潟とともに大阪が開市・開港される。開市は1868年1月(慶応3年12月)、開港は1868年9月(慶応4年7月)のことであった。開港と同時に外国人居留地と定められた川口町26区画の諸外国への競売が行われ完売し、直ちに街路樹や街灯、洋館が並ぶ西洋の街へと整備される。居留地に接する本田、富島、古川、梅本町も外国人雑居地となり、1886年には人気に応えて10区画の増設が行われた。また、木津川対岸の江之子島にはドームを有する洋風建築の大阪府庁本庁舎(1874年竣工、1926年大手前へ移転)や大阪市役所(1889年竣工、1912年堂島浜へ移転)が建設される。1899年に居留地制度は廃止されるが、大正時代末まで周辺一帯は大阪の行政の中心であり大阪初の電信局、洋食店、中華料理店、カフェができ、様々な工業製品や嗜好品がここから大阪市内に広まるなど、文明開化・近代化の象徴であった。川口が貿易港として継続的発展をなしえなかったのは、安治川河口から約6km上流に位置する河川港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来なかったことによる。そのため、外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へと移住していった。彼らに代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、学校を設立し経営を行った。平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア(天王寺区・阿倍野区など)へ次々と移転して川口は衰退への道をたどることになる。対照的に大型外国船が集まるようになった神戸港は、1890年代には東洋最大の港へと拡大していった。1899年の居留地廃止後は川口雑居地の華僑(その多くは山東省出身者)が進出し、中国人街となった。昭和の戦前にはその数は3,000人を超え、洋品店・理髪店・貿易業といった商売を行っていた。しかし、日中戦争の激化などでその多くは帰国し、大阪大空襲で焼け野原となった。戦後は華僑は大阪市内各地に拡散し、川口は地味な倉庫街となった。いくつかの古いコンクリート建築、赤煉瓦の三井倉庫、モダニズム建築の住友倉庫本社がある他は、往時の繁栄の面影は残っていない。本田小学校の一隅に「川口居留地跡」の石碑(1961年大阪市建立)がひっそりと立っているのみである。1995年の阪神淡路大震災により一部崩壊し、復旧された。
◆外人雑居地の跡/西区川口3-5(聖マリア幼稚園北東角)
川口には居留地とは別に雑居地が認められ、梅本町を中心に日本人と共に外人が移住した。ここには明治2年4月発行の「居留地外、雑居地、地券書」が残されている。雑居地の外国人はほとんど中国人で、昭和20年の戦災にあうまでは多数の中国人が住んでいた。中華料理の発祥の地でもある。中国人の経営する理髪店も多く、特に耳掃除が器用でわざわざ遠方から来る客もあった。この一帯は川口居留地外国人の影響により永く居住した。中国人の文化の影響を多く受けたところで、現在は木の説明板が立てられているだけである。(梅本町からは少し離れている)
◆富島天主堂跡/西区川口3-5(聖マリア幼稚園北東角)
明治12年(1879年)頃、フランス副領事の請願にもとずき、ここ富島に本格的な赤レンガ造りゴシック様式の建物で「カトリック礼拝堂」をこの地に建てました。今はありませんが大阪府庁江の子島庁舎と共に当時は洋風建築の代表的建造物でした。今は聖マリア教会と聖マリア幼稚園になっています。またこの辺はかつて外国人雑居地で、多くの中国人が中華料理店や理髪店を開いていました。
◆三興運送株式会社・川口営業所/大阪市西区川口3-7-29
大阪城築城の際、石垣に使用するために切り出された巨石で、何らかの事情で役目を果たせなかったものを残念石と呼んでいます。ここでは運搬中に安治川に落ちた巨石を引きあげて倉庫の壁の一部として使用しています。
・・・江戸堀までちょっと寄り道、
◆宮武外骨ゆかりの地/西区江戸堀2-7
香川県生まれの宮武外骨は、1887年に東京で発行している『頓智協会雑誌』に明治憲法を『大日本頓智研法』とした虚画を載せたことで、禁固3年に処せられている。その反骨精神は市民に大いに受けたようである。明治の中頃、江戸堀2丁目の今の花乃井中学校(元江戸堀小学校)の向かいに住んでいたそうです。
・・・再び江之子島にもどって、
◆雑喉場魚市場跡/西区江之子島1-8
江戸時代、この辺りは漁船の便が良く、『ザコバの朝市』で有名な魚市があった。『堂島米市場』 『天満青物市場』あわせて、大阪三大市場と呼ばれていました。
◆雑喉場橋の碑/大阪市西区江之子島1-9
かつてこのあたりに百間堀川がながれていた。川幅は30メートル程で江戸堀川、京町堀川、阿波堀川を集めて木津川に合流していた。百間堀川の東岸鷺島は、江戸時代より雑喉場の魚市と呼ばれ天満の青物市、堂島の米市とならぶ大坂三大市場の一つとして、大坂人の台所をまかなっていた。その当時の雑喉場はことのほか活況を呈し大坂商人の商人魂を培っていた。しかし、300年の歴史を持つ雑喉場も昭和6年の中央卸売市場の開場によりその歴史を閉じた。江戸後期、雑喉場から百間堀川をこえて、対岸の江之子島に架かる橋は、上之橋、下之橋の2橋があった。明治に移り、7年に江之子島に大阪府庁舎が建設され、その翌年、大阪で5番目の鉄橋として下之橋とほぼ同じ位置に雑喉場橋が架けられた。その後2度改築されたが昭和39年に百間堀川の埋立てとともに、雑喉場橋も姿を消した。雑喉場橋はこの碑の東側にあたり、この親柱は大正11年改築時のもので、その上の照明灯は当時の姿を復元したものである。
◆木津川橋の碑/大阪市西区江之子島1-10
木津川橋は川口と江之子島を結ぶ橋として、慶応4年(1868)に架けられたと考えられる。新政府は同年5月の開港にそなえて、川口運上所(税関)を開設し、居留地の建設を促進した。これにともなって新しい橋も架設されたようである。その後、明治9年9月に橋脚、高欄を鉄製とした橋に変わり、橋面の中央部を車馬道として区割されていたが、この橋が歩道と車道を分離した最初の例であった。その後、市電の第三期線の事業によって、大正2年6月に立派なアーチ橋に架け替えられた。この橋は意匠面でも多大な配慮が払われた。同じ路線の本町橋と同じデザインとされ、橋脚は花崗岩製で側面にギリシャ建築に見られる石柱を模した装飾が施されていた。現在の橋は、昭和41年、高潮対策事業の一環として架け替えられたものである。
◆大阪市役所・江之子島庁舎跡/大阪市西区江之子島1-9-15マツダファミリーハイツ阿波座1F前
明治22年4月、市制・町村制により大阪市が成立したが、同時に施行された市制特例により、市長は府知事が兼務し、市役所は府庁内に置かれた。同31年9月、市制特例の廃止により、大阪市は独立庁舎の必要にせまられ、翌32年12月、府庁の北側、木津川東詰に市役所を移転し、同45年5月堂島庁舎に移転するまで存続した。
◆【津波高潮ステーション】◆
550-0006大阪市西区江之子島2-1-64/06-6541-7799
http://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami/index.html
津波・高潮が発生したときの西大阪地域の防災拠点および津波・高潮災害に関する啓発拠点となる施設です。かつて大阪を襲った高潮や、近い将来必ず大阪を襲うと言われている東南海・南海地震とともに、地震、津波発生時の対応などを学べる、広く開かれた施設です。”見て、聞いて、触って”楽しく学び、災害への備えの大切さを心に刻んでください。
・・・たった今も、台風への対応で大忙しだと思います。