・・・前回は「八軒家」から「末吉船」つながりで、「京都伏見」そして「清水寺」まで行ってしまいましたが、再び「大坂」にもどってまいりました。
◆創業明治六年(西暦1873年)永田屋昆布本店
大阪市中央区天満橋京町2-10/ 06-6941-4961
八軒家の歴史(HPより)http://www.nagatayakonbu.jp/周辺の歴史/
いま天神橋・天満橋のかかっている大川は、古く仁徳天皇のときに掘られた難波ノ堀江のことです。「万葉集」には、この堀江川を松浦船や伊豆手船などという大きな船がさかのぼって難波ノ宮に集まってくるさまがたくさんうたわれています。つまりこの地は、御津・住吉ノ津とともに、当時の港だったわけです。この南側の断崖の上を【楼ノ岸】といい、そこに【坐摩神社】がまつられていました。坐摩は「いがすり」とよみ、泉の神をまつったものですが、のちに豊臣秀吉が大坂築城のとき、いまの東区渡辺町(中央区久太郎町四丁目渡辺)へ移転させたのです。石町にある坐摩神社のお旅所はそのあとを残すもので、神功皇后の腰掛け石というものが伝えられ、石町の名もその石から出たものといわれています。平安時代には、ここを「渡辺」と呼ばれていました。向かい側へ渡る渡し場の意味ですが、また窪津の名も伝わっています。「国府津」のなまりで、そのころここに国府があり和気ノ清麿が摂津職(じき)(摂津ノ国の長官)となってここを管轄していたこともあります。摂津とは「津を摂(す)べる(支配する)」という意味で、津は港のこと、すなわち摂津の国名もこの地からおこったと見るべきでしょう。
渡の辺や大江の岸にやどりして雲井にみゆる生駒山かな 能因法師
この大江の岸とは、渡辺からおこってはるかに生玉・天王寺へとつづく高台の西側の断崖の総称です。京都から淀川を船で下って天王寺・住吉・高野、あるいは遠く紀州熊野へおまいりする皇族や公家たちは、みなこの渡辺から上陸して、上町台地を南へと道をとってゆきました。そうした関係から、やがてこの津がしらに渡辺王子(また窪津王子)がまつられることになりました。熊野九十九ヵ所の第一王子で、それから熊野街道(いまの阿倍野街道)を、日数をかさねて熊野までの旅を続けたものです。この渡辺王子はのちに四天王寺西門前に移されましたが、明治中期に廃絶しました。その第二王子が、いまも阿部王子神社として残っています。
渡部橋はいつごろできたものかはっきりしません。「元亨釈書」に、聖武天皇の天平十七年、行基が難波ノ橋をかけたというのがこれにあたると思いますが、その後洪水のためしばしば流されてはかけかえられたことだろうと想像されます。その何度目かの渡辺橋の渡りぞめのとき、遠藤武者盛遠がその橋奉行をつとめて、袈裟御前を見そめたのが、あの「地獄門」の話の発端ともなっています。
天神橋・天満橋がかけられたのは、ずっとのちの豊臣時代のことです。徳川時代になってそれに難波橋が加えられ、大阪の三大橋としていまなお人々に親しまれています。八軒家の名は、ここに八軒の船宿や飛脚屋があったことから出たものだといわれています。十辺舎一九の「膝栗毛」で知られる弥次さん・北さんが大坂への上陸第一歩を印したのもこの八軒家ですし、森ノ石松の「すし食いねえ」の話もここに設定せられているなど、八軒家は千数百年の間何かと話題の絶えないところであります。
【参考】楼ノ岸砦/大阪市中央区石町2丁目
石山本願寺攻略の為、摂津国府跡付近に織田信長が築かせた砦です。
(大阪府全志より)樓の岸といへるも亦渡邊岸の一名なり、その上方に高樓の見えたるより起れるの稱ならん、一に黒牢潟とも呼べり。元龜元年七月二十七日三好長逸・三好政康・岩成友通(三好三人衆と称す)、及び三好笑岩等紀州の雑賀衆・讃州の十河衆を加へ、大擧して野田・福島に築き、堀を穿ちて之に據りしかば、信長は之を攻むるに先ち塞を此に築き、稲葉伊豫守通朝を留めて石山本願寺に備へ、後、本願寺兵の據りし所なれども、今その址詳ならず。
(摂津名所図会より)今さだかならず。或云ふ、福島のほとりなりとぞ。一名論の岸といふ、義経景時逆櫓の論をせしゆゑ名とす。
◆平野橋
541-0046大阪市中央区平野町1~内平野町3
江戸時代の橋の通りは大変賑やかであった。東に神明神社、西には【御霊神社】があり、その門前の踊り場や定期的に開かれる夜店は大坂の名物の一つであった。また、町内には北組の惣会所も設けられ、町政の中心地でもあった。平野町の由来は御霊神社の祭神、【早良親王】が京都の【平野神社】に祀られていたことから、この界隈が【平野】と呼ばれるようになったと考証されている。江戸時代の平野橋に関する逸話は少ないが、町筋の繁栄とともに人通りの多い橋であったと思われる。橋の規模は明治になっても変化なく木橋(橋長61.7m 幅員4.5m)であった。明治末以後、鉄橋に架け換えられたが、本格的な近代橋となったのは第一次都市計画事業に よってである。(昭和10年完成)形式は三径間連続の鋼板桁をセルフアンカーされたバランスドアーチ で補剛、アーチ部材が非常に小さい。これはスマートな印象を与え世界でも初めてと称された形式の橋である。
・・・「平野町」は「平野神社」との関係で、そう呼ばれるようになったとこの説明には書かれてあった。しかし、
★豊臣秀吉が石山本願寺跡に大坂城を築城時に、大勢の家臣団や武士がこの地に集まり、武器・武具から食料・生活用品などが大量に必要となったので、【平野】や堺、京都、伏見から商業者を強制的にこの周辺に移住させ、急速に城下町の整備を進めた。【平野町】、【伏見町】といった町名はその名残りである。その後、船場周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが次々に誕生し、政治、経済、流通の中心地となり栄え始めた。江戸時代になってからは「天下の台所」として北部を中心に日本の商業の中心となった。また、順慶町あたりから島之内、道頓堀にかけては歓楽街として栄えた。
★天正11年(1583年)に秀吉が大阪城下の造成に着手したわけですが、まずは上町と大阪城から四天王寺方面にのびる【平野町】の街区が最初に出来ました。この平野町は、街区の表幅60間に奥行き20間の町屋が並び、京都の街区の3分の2の大きさの町割がつくられています。これは「商都としての使いやすさ」という考えが背景にあって出来上がったのではないかと推測されます。「内平野町」などに冠された「内」も東横堀以東の大坂城の惣構内を意味し、太閤秀吉による大坂の都市計画第一号で作られ名づけられたまちだそうです。ここには平野郷から人が移り住み、「伏見町」なども同様でそのまちの町人が移住したことからついた名はいくつも見られます。
【参考】北平野町・東平野町・東平
秀吉の時代に【平野郷】の町人を城の南に強制移住させたことに始まり、平野郷と区別して【北平野町】と呼んでいた。その後明治22年に船場の【平野町】(ここも元平野郷の町民が住んでいたところ)と区別して東成郡【東平野町】となり、同30年大阪市東区に編入し、大正14年天王寺区創設で天王寺区。昭和18年地区の北半分が南区に編入された。そして、昭和50年代の住居表示変更で天王寺区の東平野町は上汐となり消滅し、南区の東平野町は【東平】と省略されて表示されるようになった。
・・・調べるかぎりにおいては、「平野郷」から移住させられたという説明が多く出てくる。むむむ、とにかく「御霊神社」も調べてみましょう。
◆御霊神社
541-0047大阪市中央区淡路町4-4-3/06-6231-5041
ご祭神は、天照大神荒魂(瀬織津比売神)・津布良彦神(旧攝津国津村郷の産土神)・津布良媛神(旧攝津国津村郷の産土神)・応神天皇(広幡八幡大神)・源正霊神(鎌倉権五郎景政公霊)の五柱である。古来大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靭、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長掘の西部、南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神として、信仰の中心になっていました。当神社の創立は、太古大阪湾が深く入り込んで海辺はぬかるみ、芦荻が繁茂して圓(つぶら)江(え)と云い円形の入江に創祀された圓神祠に始まり、嘉祥三年(八五〇)の『文徳実録』に八十嶋祭の祭場が圓江で、そこに創祀されたのが圓神祠とされ、八百年代後半の創建とされています。御神威高く、上古天皇御即位の大嘗祭に続く八十嶋祭に預かり給い、後に土地が次第に固成して村を形成し、その名も津村と転訛しました。その場所が、御霊神社の前身である圓江神社、現在の西区靭本町一丁目にある楠永神社辺りだとされています。御霊神社の前身が靭にあったことを記念して、境内に「うつぼの碑」が建てられました。御霊神社は古くは圓神社、津村神社といわれた古社であり、御霊神社の南に接している西本願寺の津村別院、俗称・北御堂とともに、平安時代の圓江の名を今日に伝えたものです。豊臣秀吉公の大坂居城と共に政治経済の中心地として発展し、諸大名が来集してその崇敬も厚く什器の寄進も相次ぎました。中でも石州津和野藩の祖亀井茲矩候が邸地を割いて寄進されたので、文禄三(一五九四)境内の小祠乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀して圓江(現在の靭)から現在地に鎮座しました。寛文年中御霊神社と改称、元禄九年(一六九六)御霊大明神と御贈号、宝暦三年(一七五三)九月正一位の神階を授けられました。また、伏見宮家より神輿修復の御寄進があり、幕府も城代巡見社として崇敬、明治六年(一八七三)郷社に昇格し、大正二年(一九一三)府社に列し、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬が厚く、お弓神事、火焚神事や夏祭のお旅所への神輿渡御列淀屋橋から大川筋を下博労御旅所へ船渡御神幸)の華麗さは浪速名物の一つに数えられ現在に至っています。又、江戸時代両国三十三か所観音参りの三十三番礼所でもありました。
御霊神社は全国に数多くあり、政争や戦乱で恨みを残して死んで行った者の怨霊を鎮めるため神として祀った神社。恨みを鎮めれば、鎮護の神として利益をもたらすとされていた。これを御霊信仰といい、祀られる代表的な霊は、【早良親王(崇徳上皇)】、菅原道真、などが挙げられる。鎌倉景政も御霊神社に祀られることが多いが、これは英雄としての祖霊信仰に近く、この御霊神社は鎌倉景政を祀ることで、産土神の祠から大きな神社へと発展したと考えられる。
★早良親王(崇道天皇)
奈良時代末期の皇族で光仁天皇の皇子。781年、異母兄・桓武天皇の即位と同時に立太子となる。だが785年、造長岡宮使 藤原種継暗殺事件に連座して廃され、淡路国に配流の途中絶食し、河内国高瀬橋付近で憤死した。その後、桓武天皇の長男安殿親王(後の平城天皇)の発病や桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われ、800年、崇道天皇と追従された。
・・・「早良親王(崇道天皇)」よりも「源正霊神(鎌倉権五郎景政公霊)」の方が、御霊神社にとっては重要な柱のように思える。
●夏祭りの奉幣祭が盛大に執り行われました。2011年に約140年ぶりに復活した船渡御のほか武者行列など、都心で歴史絵巻を思わせる光景を再現しました。御霊神社は、商人の町・北船場の中心にありながら、ご祭神のなかに武士の守り神である鎌倉権五郎景政公をも祭祀していらっしゃいます。御霊神社という名前は鎌倉権五郎の「ゴロウ」という音に、力強く荒ぶる御魂を示す「御霊」の文字を宛てたとも伝えられているようです。そのため古くから商人のみならず武士の尊崇が厚く、豊臣政権の時代には多くの名のある武将が戦勝祈願に参詣しました。夏祭りには甲冑武者を中心とした五百人の行列が出て、堂々たる威容を示されました。一行は、淀屋橋南詰めから二十艘の船に乗りこんで、南堀江の行宮まで渡ります。その盛大な行列は、大坂の夏の風物詩のひとつとされました。船渡御は、天満宮のみと思われていますが、ここ御霊神社でも安永九年(1780)から明治維新による中断まで、90年近く続いたご神事でした。船渡御は明治に入って途絶え、武者行列もまた平成七年の阪神大震災の年を最後に途絶えたままでしたが、なんとかこの伝統行事を復活させたいという思いとともに関係者の方々に働きかけてこられました。2011年に発生した東日本大震災を受け、大阪から元気の発信を目指して復活に至りました。過去2回が昼間だったのに対して、今年は本来の船渡御の姿に戻そうと夕刻に斎行されました。船場武者講をはじめ、江戸堀猿田彦講、西船場獅子講、靱太鼓講などから約150人が集まりました。一行は武者姿などで御堂筋を練り歩いた後、淀屋橋から3隻の船に分乗。土佐堀川、堂島川を経て、木津川沿いにある御霊神社行宮(同市西区南堀江)を船上から遥拝しました。夕方から夜に掛けての船渡御は初めてのことでもあり、とても幻想的でした。薄暗い中、また神社まで行列は戻り無事終了しました。
・・・京都の「平野神社」についても調べなければなりません。
