古市街道9 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「白鳥神社」は、もと社名を「伊岐宮」と称し、羽曳野市軽里(旧軽墓)の地にある白鳥御陵に近い「伊岐谷」にあり・・・が気になり調べてみました。


大阪府古市郡軽墓村の変遷

古市郡軽墓村古市郡誉田村古市郡碓井村古市郡古市村1889年4月1日(明治22年4月1日)古市郡古市村1896年4月1日(明治29年4月1日)南河内郡古市村1916年8月1日(大正5年8月1日)南河内郡古市町南河内郡丹比村南河内郡駒ヶ谷村南河内郡西浦村南河内郡埴生村南河内郡高鷲町1956年9月30日(昭和31年9月30日)南河内郡南大阪町1959年1月15日(昭和34年1月15日)羽曳野市


はか1


軽羽迦神社

戦後建てられたもので、最初は白鳥陵古墳の濠の横の祠に祭ってあったとされています。その後誉田八幡宮に一時預けられ、現在は白鳥陵古墳の隣に移されました。今でも白鳥陵古墳の濠の横には小さな祠が残っています。祭神は、隣に白鳥古墳があるで、日本武尊か素戔鳴命を祭っていると思っていましたが、天照大神を主神とし蔵王権現と熊野権現の二神を合祀し、合計三神を祭っていました



はか2


軽墓村の字伊岐谷(井喜谷)

軽里大塚古墳(白鳥陵)西側には、「井喜谷」あるいは「伊岐谷」という小字が残っていました。


・・・しかし、峰塚公園の整備によって、現在は多目的グランドになっているようです。


はか3


峯ヶ塚古墳

墳丘の長さ96メートル、前方部の幅74.4メートル・高さ10.5メートル、後円部は直径56メートル・高さ9メートルの前方後円墳である。江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていた(現在は、軽里大塚古墳を比定)。また、允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあった。墳丘は二段に築かれており、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほかは、表面に葺石はみられない。1992年(平成4年)の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗掘壙を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れた。石室や盗掘壙から、大刀・鉄鏃などの武器、挂甲小札(けいこうこざね)などの武具、轡(くつわ)・鐙(あぶみ)などの馬具、装身具、玉類などが大量に出土した。また、成人男性の骨や歯なども出土している。出土した埴輪や横穴式石室の特徴から、6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と考えられている。また、発掘調査により、峯ヶ塚古墳は二重濠をもつ古墳であることが判明した。内濠の幅約11メートル、内堤の幅約18メートル、外濠の幅約8メートル、墓域は総長約168メートル、幅約148メートルの大規模なものである。古墳時代後期には古墳が全般的に縮小傾向をみせるなかで、二重濠を持つ古墳を築造できた被葬者は大王級の権力のある人物であったと推測される。1974年(昭和49年)に国の史跡に指定されている。


・・・江戸時代までは「白鳥陵」だと考えられていたのですね。


はか4


・・・再び街道にもどり、誉田八幡から古市への踏み切り横の灯籠のことが気になって調べてみました。


織部灯籠

桃山時代、茶の湯の興隆により、新しく露地が生まれ、夜の茶会の為に露地の明かりとして、古社寺の石灯籠が利用されるようになり、さらには、茶人の好みのものが新しく創作された。その代表的なものが織部形石灯籠である。竿の円部に、アルファベットを組み合わせた記号を陰刻し、その下部に立像を浮彫にしている。これを地蔵信仰に似せた隠切支丹の尊像と見て、マリア灯籠とか切支丹灯籠とも言われた。実際に、十字架的な要素を強調し、竿に十文字に閂を入れたものもある。一般的には、桃山時代の茶人、古田織部が創案したものとして、織部灯籠とよばれている。


はか5


灯籠の円形部に記されている記号のような文様は、切支丹灯籠の研究家松田重雄氏によれば、慶長年間と江戸時代初期の僅かな期間のみに使用され、その後消滅しているといいます。そして記号のような文様は「PTI」という文字、ギリシャ語の「PATRI=父」という言葉を図案化したものと推察しています。「辰」という文字を簡略化したものではないかという研究者もおられます。


・・・気になることは、やっぱり調べてみるものですね。ただ、古市の灯籠の下部に「立像の浮彫」を確認することはできませんでした。地中に埋もれているのかな?