古市街道8 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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◆金田寺/583-0857羽曳野市誉田2-2-13



きん1


・・・踏み切り横「村中安全」の祠と灯籠が素敵です。


きん2


◆勝光寺/583-0857羽曳野市誉田1-6-12

古市の西念寺真蓮寺、西浦の覚永寺、蔵之内の元勝寺とともに「河内五ヶ寺衆」と称されていました。


きん3


古市代官屋敷跡

古市は、江戸時代石川流域の物資集散地であり、竹内街道・東高野街道が交差する交通の要地でした。そのため、江戸幕府は直轄支配地、いわゆる天領にし、「上方代官」と呼んで旗本クラスの人物を派遣、江戸初期から明治初期まで7回にわたって天領にしています。記録によると第一回目は寛永十一年(1634)より明暦元年(1655)まで、第二回目は寛文八年(1666) から翌九年まで、第三回目は456石分のみ寛文九年(1669)より宝永二年(1705)まで、第四回目は前記石分が享保十五年(1730)から延享三年(1746)まで、第五回目は全村千百二四石分が延享三年(1746)から宝暦六年(1756)まで、第六回目は宝暦九年(1759)から安永八年(1776)まで、第七回目は寛政二年(1790)から明治元年(1886)までとなっており、上記以外は大阪城代の役知(役務知行地、管理職手当)となっています。その最後の代官が旗本内海多治郎で、支配地石高一万二千余石にも及んでいたそうです。また、当代官所は河内長野にも関係のある天誅組関係者を取調べた所でもあります。その後、1990年に同代官所址の一郭が共同住宅建設工事にかかるため発掘調査が行われ、近世を中心とする時期の遺物が検出されました。調査の結果によると、屋敷址と思われるものは確認出来ませんでしたが、埋ガメ、石組土壙(どこう)・溝・井戸などの遺構が見つかり、井戸の中から徳川家の紋の三つ葉葵の軒丸瓦が出土、また鉄滓(てつかす)やフイゴの羽口が比較的多く出土していることや旧町名鍛冶町から製鉄関係の施設が存在した可能性が考えられます。


・・・今は、案内パネルもはずれた状態になっています。街道筋の裏には、当時の面影がかろうじて残っています。


きん4


古市遺跡

縄文時代から現在に至るまでの長い生活の跡が見られる遺跡です。現在の古市の町は、江戸時代の町並みが基本になっているものと思われます。竹内街道や東高野街道といった幹線道路が交差しており、石川を利用した船運も行われ、江戸時代には水陸交通の要所として栄えました。そのために古市周辺は幕府の直轄地となり、代官所が設置されました。また鍛冶工房跡と考えられる遺構が発見されるなど、中世以降、製鉄業が発展しました。町の北東部には、その名残ともいえる「鍛冶町」という地名が残っています。

市口左兵衛

高野街道沿いの誉田村鍛冶町で鍛冶屋を営んでいた市口左兵衛は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いから敗走する薩摩藩の島津義弘の軍勢を住吉まで無事に案内した功績により、「薩摩藩御用轡師」になる。以後、将軍家にも献上され、「市口の轡」は全国に広がった。

◆(市口鉄工所

583-0857羽曳野市誉田1丁目5-12072-956-0277

皆様は、轡(くつわ)や鐙(あぶみ)という言葉をご存じでしょうか?私が幼少のころ祖父がそれを、火造りという方法で作っていました。乗馬の際に使用する金具で、馬の口に噛ませ手綱を付けたり騎手の足を支える金具などがそうです。市口の轡(くつわ)は全国的に名が通っており、遠く九州の島津藩などからの依頼もあり、その頃の注文状や納品状など数多く残っております。現在は精密機械部品加工をメインにあらゆる部品加工にチャレンジしております。機械部品ひとつひとつの精度が完成した製品のクオリティーを決めると考えますが、それ以前に、加工する素材の気持ち古くから馴染んできた物作りに対する思いを持って加工すれば、一味違った製品に仕上がるのではないかと思っております。これからも、お客様の求められている部品精度はもとより、より良い製品を製作する為精進し、どのようなご依頼にも対応できる企業を目指していきたいと考えます。


・・・時代は変わっていきますが、市口鉄工所として受け継がれています。


きん5


◆白鳥神社

583-0852羽曳野市古市一丁目1番18号

当社は白雉年間の創建と伝えられるが、もと社名を伊岐宮と称し、羽曳野市軽里(旧名軽墓)の地にある白鳥御陵に近い伊岐谷にあり、日本武尊の臣であった吉備武彦に陵守りを命じ、下っては欽明天皇の勅額寺向原山西琳寺の住職が別当となり、奉仕を司どってきた事は、同寺の旧記に依って明らかである。日本武尊の御事跡については、正史に詳らかであり今更是に記す迄もない事であるが「尊既に東夷を平定し給いて京師に凱施し給う時、近江国伊吹山の毒気に掛り給いてより日々に御悩み深く、終に九月九日近江国千の松原にて崩御せらる。天皇歎き給いて、皇子は実に祖宗神たる神武天皇に継て諸国を平定したるその勲功浅からず、今皇子の死を聞く今より後は誰と共に祖宗の遺訓を守らむと直ちに百官に命じ給いて、天皇の大礼を以て伊勢国能褒野に御陵を築き葬り給えり、陵俄かに振動し神霊は八尋の白智鳥に化し天翔り坐して遂に大和国琴引に止り給いければ、此に又御陵を築き給うに、更に天翔り白尾を曳きつつ河内国古市郡古市に止まり給いければ更に御陵を築く、後此の陵より昇天し高天原に鎮まり給えり」とあるように尊の御生涯はまことに休む暇もない安国平定の貴き日々であった。垣武天皇の「伊岐宮」勅額の下賜などあり、朝野の信仰の厚いのも宜べなるかなである。現在羽曳野市と市名に残る羽曳野丘陵は、尊の白鳥と化し羽根を曳きつつ、天翔り天に昇り給うた旧事によるものと思われる。明治五年に村社に列せられ今日に至っているが、宮号を改めるにつき「白鳥神社」となったもので、別名「モガリ」と称する前方後円墳上に鎮座せられ、現在古墳前方の一部は昔民有となり、中央部以後は近鉄南大阪線古市駅の敷地に売却せられた為僅かに七七三坪を残存し、本殿(春日造流破風)幣殿拝殿社務所を有し、古市六ケ町の氏神ながら駅頭に位置し参拝者多き旧社である。