・・・再び「ハルカス美術館」へ、
・・・オープニングは「東大寺展」でした。それはそれで良かったのですが、この第2回展を待ち望んでいたのです。もちろん、「あの女」に会うために。
◆【ポルディ・ペッツォーリ美術館】◆
スカラ座やドゥオーモにほど近いミラノの中心地にあるポルディ・ペッツォーリ美術館は、ヨーロッパで最も優雅な邸宅美術館といわれています。ジャン・ジャコモ・ポルディ・ペッツォーリは1822年7月27日、ミラノに生まれました。1846年、24歳の若さで、彼は先祖代々の素晴らしい財産を受け継ぎます。それらはパルマの名門ポルディ家出身の祖父と、ベルガモの名門ペッツォーリ家出身の祖母の財産、そして父が結婚したミラノ有数の貴族トゥリヴルツィオ家の財産を加えた、莫大にして華麗なるコレクションでした。ジャン・ジャコモは、この恵まれた環境で育まれた審美眼によって自らも蒐集を始め、武具や宝石、タペストリー、そして絵画へとコレクションは拡大していきました。1879年4月6日、ジャン・ジャコモはおそらく心臓発作が原因で彼の書斎で亡くなりました。彼の遺言には「全ての美術コレクションは永久公開されるものとする」とあり、1881年4月25日に邸宅は美術館として公開されることとなりました。第二次世界大戦下、爆撃による被害を受けながらも美術館は常に彼の嗜好を踏まえながら再建され、複数の個人・団体からの寄贈でそのコレクションは発展し続けています。ポルディ・ペッツォーリ家の美意識の系譜は、今なおミラノの人々によって受け継がれているのです。現在、ポルディ・ペッツォーリ美術館はミラノを州都とするロンバルディアをはじめ、フィレンツェやシエナを中心とするトスカーナなど、ルネサンスから近代まで300点以上の絵画コレクションを誇るまでとなりました。本展覧会では、美術館の代名詞ともいわれるピエロ・デル・ポッライウォーロの《貴婦人の肖像》 をはじめ、ジャン・ジャコモが亡くなる数日前に購入したとされるボッティチェッリの《キリストの哀悼》、ラファエッロ(帰属)の《フランチェスコ会の聖人が描かれた行列用十字架》などの絵画をはじめ、武具、工芸、蔵書など貴族の美意識あふれるコレクションの数々約80点を日本で初めて公開いたします。
・・・以前、「真横画」にはまった時期があって、いろいろと調べたことがあるのです。
※ピエロ・デル・ポッライオーロ(Piero del Pollaiolo)1441年頃~1496年
フィレンツェの出身。兄は美術家のアントニオ・デル・ポッライオーロ(Antonio del Pollaiolo)で、よく二人で一緒に仕事をした。二人の作品はともに古典主義の影響が見受けられ、また人体解剖学への関心の高さも示している。伝えられるところでは、兄弟は知識の向上のため、実際に解剖を行ったといわれている。1496年にローマで死去。ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』には、ピエロ・デル・ポッライオーロのことも記されている。ポッライオーロという筆名は、父親が鳥肉の売買をしていたことに由来している(イタリア語の pollaio は「鶏小屋」という意味)。兄のアントニオが大きな成功を収めたのは、彫刻家および金属細工師としてであった。もっとも、多くの場合、弟のピエロと共作だったので、正確にどれが彼の作品かを判断することは難しい。何といっても、注目させられるのは、人物の動きに対する理解の深さである。人物の動き、張り詰めた筋肉の状態に対する兄アントニオの解剖学的な分析は、他のフィレンツェの画家たちに大いに貢献した。さらに、風景に向けられた先駆的な関心も見過ごせない。解剖学の研究のため死体を解剖し、それはレオナルド・ダ・ヴィンチの出現を予想していたと言われている。アントニオの弟子の中には、ボッティチェッリもいる。埋葬されたのは、ローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂で、兄弟の記念碑が建てられた。
※アントニオ・デル・ポッライオーロ(Antonio del Pollaiolo)
・・・ネットで調べると、名前が混同されているものがかなり多くありますし、もちろん二人の共作というものもあったりしますから、とても不安になります。実際のところ、兄の業績(情報)の方が有名のような気がします。しかし、今回展示された「貴婦人の肖像」は、涙が出るほどすばらしいものでした。私の興奮をよそに、なんと落ち着いた輝きでしょうか。
・・・ボッティチェッリも弟子だったそうですし、ダヴィンチに先駆けて解剖学も研究していたということで、もっともっと注目されてもいいのではと思います。今回の展覧会は、それらの意味でもぜひ多くの方々に鑑賞していただきたいものです。
※注 今回の展覧会に展示されていない作品も掲載しています。