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・・・「せんぐう館」で伊勢神宮について事前学習をしてから、


じん1


豊受大神宮(外宮)

516-0023三重県伊勢市宇治館町10596-24-1111

豊受大御神(とようけのおおみかみ)をお祀り申し上げる豊受大神宮は、内宮に対して外宮とも申し上げます。第21代雄略天皇は、夢の中で天照大御神のお教えをお受けになられ、豊受大御神を丹波の国から、内宮にほど近い山田の原にお迎えされました。今からおよそ1500年前のことです。豊受大御神は御饌都神とも呼ばれ、御饌、つまり神々にたてまつる食物をつかさどられています。このことから衣食住、ひろく産業の守護神としてあがめられています。内宮と同じく、正宮と呼ばれますように、建物やお祭りはほとんど内宮と同様ですが、両宮は決して並列されるものではなく、あくまで内宮が神宮の中心なのです。


じん2


風宮

ご祭神は級長津彦命・級長戸辺命2神に坐し、元来は風社と称しておりました。『止由気宮儀式帳』及び『延喜神名式』何れにもその社名はみえず、長徳3年〈997〉の「長徳検録」(度会家行著『類簒神祇本源』所引)に「風社在高宮道棒本」と初見し、多賀宮へと続く参道沿いの杉の木の本に坐した小さな社であったと思われます。それが、内宮域内の風日祈宮と同様、弘安4年(1281)の元冦に際して蒙古の敵軍を全滅に至らしめた神威の発顕によって一躍別宮に加列されるに至りました。正応6年(1293)のことです。その当時の状況については『増鏡』に詳しく記されています。さらに、時は移り幕末になると、欧米列強諸国による東洋進出がはじまり、日本もその侵略の危機に再び遭遇することになります。その際、中世以来の信仰は再度喚起され、朝廷は文久3年(1863)5月に15日間の攘夷御祈願を両宮の風宮に捧げられました。元来風宮は風雨の災害なく稲を中心とする農作物が順調に成育するようにと祈りが捧げられる社でありましたが、元冦以来国難に際しては神明のご加護によって国家の平安が守られるという信仰がそこに加わってまいります。それは現代にも生き伝えられ、元神宮祭主北白川房子様の御歌にも端的にそれが示されております。


じん3


◆土宮

往古より外宮ご鎮座の山田の原の守護神として崇敬されてきましたが、『延喜神名式』には記載がみえず、古代においては未だ官社としての形態を有していませんでした。しかし、時代が下り長徳3年〈997〉の「長徳検録」(度会家行著『類聚神祇本源』引用)に外宮所管の田社32前の1座として土御祖神社の名が出て参ります。田社とは今でいう末社にあたります。更に平安時代末期、崇徳天皇の大治3年〈1128〉6月5日に宮川治水、堤防の守護神として別宮に加列されるに至りました。末社から摂社を飛び越えて正宮に次ぐ別宮という特別の地位をお受けになりましたのは特別な理由があったものと推察されます。つまり、現在伊勢市の西を流れる宮川は、かつてはその上流に於いて幾筋かに分岐して、今の市街地に流れ込んでおりました。当時は治水技術も発達しておらず、氾濫による被害が相次ぎ、地域住民にとり宮川治水は一際感心が高く、しかも土地の守護を掌どる大土乃御祖神に対する祈りは切なるものがあったことでしょう。また、外宮の祭祀を行う上でも洪水となれば支障をきたす場合があったものと考えられます。そのような状況の下で上記の如く宮川堤防の守護神ということに重きが置かれ、大治3年に朝廷より太政官符が出され、宮号宣下に至りました。その結果、祈年祭、月次祭、神嘗祭の際、官幣に預かることになります。なお、弘安8年〈1285〉の度会行忠の撰になる『神名秘書』によると、土宮3座として大年神、宇迦魂神、土御祖神の記載が見えますが、別宮に昇格したのは土御祖神1座だけであったと思われます。宮号宣下より遅れること7年の保延元年〈1135〉、土宮のご社殿は別宮としての威容を整えるべく規模が増大され、また御金物も鉄製のものから金銅製のものに改められ、御装束も多賀宮に准じて調進されるようになりました。しかし、中世戦国時代になると正宮同様、土宮においても乱世の煽りを受け、式年遷宮は百数十年間中絶の止むなきに至りましたが、神忠篤き人々の手により数次にわたって仮殿遷宮が行われ、寛永8年〈1631〉9月には式年遷宮は復興をみました。ところで、他の別宮が全て南面するのに比して土宮だけが東面しています。保延元年のご造営の際もこの点が問題となり、朝廷においても十分検討され、御卜まで行われましたが、結局は従来通り東面に建てられることになりました。これについては南面に建てれば正宮を後にするとか、地勢の便宜上の理由に拠るとか、古来種々論じられてきましたが、詳らかにしません。但し、理由の如何にかかわらず、東向きにご鎮座するということは外宮ご鎮座以前に遡り、古態を残したものといえるでしょう。


多賀宮

『延暦儀式帳』に「高宮一院 等由氣太神宮之荒御玉神也」とみえ、古くは高宮とも称されております。恐らくは小高い丘の上にご鎮座になっていることからそう呼ばれたのでしょう。ところで、豊受大神宮の別宮には多賀宮、土宮、月夜見宮、風宮の4宮がありますが、多賀宮だけは『止由気宮(とゆけのみや)儀式帳』および『延喜神名式』に記載がみえる別宮で、他の3宮が後年、宮号宣下により別宮に列せられたことに比すれば、一際格式が高く、しかも皇大神宮の荒祭宮同様、外宮の第一別宮として古くより特別な待遇を受けて参りました古社です。さて、当宮の淵源を尋ねると、今から凡そ1500年前、第21代雄略天皇の御代22年に天照坐皇大御神の御神勅によって豊受大御神が丹波の国から御饌(みけ)つ神として迎えられ、豊受大神宮が創立された際、多賀宮も同時に奉斎されたと伝えられています。14別宮のうちで荒祭宮同様殊に重きが置かれ、20年に1度の大祭である式年遷宮でもこの2宮だけは正宮に引き続き同年に斎行されます。また、勅使参向の際は恒例祭と臨時祭とを問わず正宮の祭典終了後ただちに幣帛が奉られることからも、その重要性が容易に推察頂けるでしょう。現在は、農事に携われる方はもちろんのこと、産業全般にわたって従事される方々の篤い崇敬を集めております。


じん4


◆せきや本店あそらの茶屋516-0074三重県伊勢市本町13-70596-65-6111

柄杓童子/薮内佐斗

『古来より、伊勢参詣は人々の憧れでしたが実際にお詣りができないひとたちの願いを叶えたのが、犬の代参でした。柄杓を背にした犬が、たくさんの善意に守られながら道中を続けたといいます。犬に跨っている童子は、優しいこころの象徴です。』


・・・ここで薮内さんの作品に出会うとは、うれしい発見です。



じん5


◆山田館/516-0074三重県伊勢市本町13-10596-28-2532

それはまだ、伊勢神宮に参拝される方々が遠方から鉄道に乗り長時間かけてお越しになる百年近く前に山田館は誕生しました。時代は流れましたが、昔のままの佇まいを保ちながら外宮参道で旅館をつづけています。建築は、法的な制約があり改装できませんが、これまで何万人という伊勢神宮に来られるお客様をお迎えさせていただきました。世代を重ねて、愛されました旅館です。ホテル形式が好まれる中昔懐かしく思い、三世代でお越しになるお客様もおみえでございます。食事内容等は料亭で、修行積んだ五代目が直接調理させていただきご満足いただきまして、若い方々にもご好評をいただいております。カップル・グループ等に家庭的なおもてなしでご接待させていただきます。また、学生のスポーツ、ゼミ、研修等にも幅広く対応しご満足頂いております。



神都バス

20年に1度、社殿などを一新し、ご神体をうつす伊勢神宮(三重県伊勢市)の第62回式年遷宮に合わせて、三重交通(本社・津市)は3日、約半世紀前の路面電車をモデルにした新型バス「神都しんとバス」の運行を始めた。JR伊勢市駅から外宮と内宮を結ぶルートで、1日5往復の計10便。モデルになったのは、同社が1961年まで市内で運行していた路面電車「神都線」。外装は淡い黄色と緑色を基調にしており、路面電車特有の丸屋根に、集電ポールも取り付けた。内装は木目調の床板に、丸形の室内灯。「チンチン電車」の呼称を思い起こさせるベルも鳴る。神都バスの料金は普通運賃(大人410円)と特別料金(290円)の計700円。


・・・さまざまな市民や企業の努力で、町全体がミュージアムとなる。訪れた観光客は、目的地への行き帰りに、単なる商魂としてではない、地域に根付いた文化を満喫することができ、大きなお土産を得ることになる。