・・・この機会にいろいろ勉強してみましょう。
※浄土宗
法然上人が開祖で、浄土教専修念仏を宗旨とする日本の仏教宗派の一つ。
◆本願寺伝道院(京都市指定文化財)
600-8348京都市下京区東中筋通正面下ル紅葉町・同区油小路通正面下る玉本町
西本願寺伝道院は伊東忠太の設計、1912年竣工の100年建築である。京都市内西本願寺に程近い路地に面して建っている。端正な傾斜屋根の町屋建築が並ぶ町並みにあって、シンボルとなるドーム屋根を頂く八角堂を持つ個性的な外観にも拘らず、この街並みに思いのほか、ひっそり馴染んで建っている。浄土真宗の信徒保険会社として建設され、その後、銀行、事務所、研究所、診療所と時代ともに用途を変え、現在は研修所として使われている。その間に幾度かの改修は行われているが、建設当時の外観、間取り等にほとんど変化はなく、創建当時の姿を維持保全して使われている。用途は変わっても空間はそのまま利用してきている。この建築は、建築家であり建築史家である伊東忠太の設計であることを抜きには語れない。木造の伝統を進化して石材・鉄材で作るという伊東忠太の「建築進化論」の実験・実証のひとつがこの建築である。外観や内装にみられる多様なモチーフを取り入れたデザインも然ることながら、木と鉄のハイブリッド梁や跳ね出し部のI型鋼梁の採用等当時としては技術的にも斬新で意欲的試みと言える。改修にあたっては、「文化財的価値の保全と有効活用の調和を図る。」方針で「修復」に徹して臨んでいる。煉瓦壁内部に鉄筋を貫通挿入し、床内部に鉄骨水平部ブレースを組み込むことで外観を変えず耐震補強を行い、内外装部材は原形を修復する形で保全を図っている。サッシ周りの改修も、既存鎧戸を固定して再利用し、既存窓枠に新設サッシを隠す意匠などの工夫を凝らしている。特記すべきは部屋・部位により多種多様に異なる床や天井のデザインのすべてCAD図面としてトレースし、記録保存を図っていることである。設備改修においても、現代の技術を活かした省エネ改修を行いながら、歴史的価値のある仕上げを傷つけないように細やかな意匠上の配慮がなされ、かつ目立せない工夫がなされている。既存シャンデリアを修復する一方で省エネを考慮した部屋毎の照度・空調計画を行い、メリハリの効いた省エネ対策が実現できている。また、維持保全計画も設計思想を継承するとの方針のもと、過度に手を加えることなくロングライフできるものとなっている。伊東忠太の「建築進化論」の実験的建築である伝道院は、デザイン的にも技術的にもその時代の建築をリードしてきたものであるが、100年というロングライフを生き延び、現代に建築の進化、伝統の意味、建築寿命の意味を語りかけているように思える。単なる意匠的文化価値の保存でなく、耐震改修など技術的にも保全し、使いこなしているこの建築の有様は高く評価できる。
※浄土真宗
鎌倉初期、法然の弟子親鸞が、法然の教え(浄土宗)を継承発展させ、後に教団として自立した仏教の日本独自の宗派。宗派の成り立ちの経緯から、真宗とする宗派もある。別名に一向宗、門徒宗とも言われる。所依の経典は浄土三部経(仏説無量壽経・仏説観無量壽経・仏説阿弥陀経)。仏教宗派に対する浄土真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許されるし、多くの宗教儀式や習俗にとらわれない合理性を重んじていること。
※真宗
浄土真宗系の宗派10派で「真宗教団連合」というものをつくっていますが、ここに参加している宗派のうち名称に「浄土真宗」と付くのは「浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)」のみで、「真宗大谷派(本山・東本願寺)」等その他は全て「真宗○○派」と名のっています。いずれも基本的に親鸞聖人を宗祖とする宗派で教義体系等に違いはありませんが、歴史的事情により異なる宗派として現在に至っています。親鸞聖人は「浄土真宗」、「真宗」のいずれの言葉もお使いになっています。戦前までは本願寺派も「真宗本願寺派」でした。
※一向宗
もとは一向上人を祖とするグループを指して「一向衆」といったわけですが、誤って浄土真宗、特に本願寺系と混同されたという歴史があります。そのため浄土真宗が「一向宗」と呼ばれることとなってしまい、江戸時代には東西本願寺等が幕府に正式に「浄土真宗」と名のることができるよう要望していたわけですが、浄土宗からの異議もあり、それがかなったのは明治になってからです。もともとの一向衆のほうは、江戸時代には幕府によって教え等が似ているということで時宗に組み込まれましたが折り合いが悪く、明治期以降は浄土宗に帰属しています。以上のような歴史から、真宗門徒の側から自らを一向宗と呼ぶことはありません。
◆東本願寺
600-8505 京都市下京区烏丸通七条上る/075-371-9181
浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、御影堂には宗祖・親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられました。これが東本願寺の始まりです。東本願寺は、親鸞聖人があきらかにされた本願念仏の教えに出遇い、それによって人として生きる意味を見出し、同朋(とも)の交わりを開く根本道場として聖人亡き後、今日にいたるまで、門徒・同朋のご懇念によって相続されてきました。親鸞聖人は、師・法然上人との出遇いをとおして「生死出ずべきみち」(凡夫が浄土へ往生する道)を見出されました。人として生きる意味を見失い、また生きる意欲をもなくしている人々に、生きることの真の意味を見出すことのできる依り処を、南無阿弥陀仏、すなわち本願念仏の道として見い出されたのです。それは混迷の中にあって苦悩する人々にとって大いなる光(信心の智慧)となりました。そして、同じように道を求め、ともに歩もうとする人々を、聖人は「御同朋御同行」として敬われたのです。
◆参拝接待所・ギャラリー展示
1934(昭和9)年、現在地にあった旧志納場に替えて、武田伍一博士の建築監修のもと、参拝者の休憩や礼金・志納・寄付等の受付窓口として新築されました。また、参拝接待所の北側地下部分には1998(平成10)年の蓮如上人五百回御遠忌の記念事業として、高松伸氏(建築家)監修のもと、「真宗視聴覚ホール」が竣工し、仏間や応接室、参拝接待所ギャラリーなどが設けられています。ギャラリーでは、宗祖親鸞聖人に関する史料や東本願寺の法宝物の展示、東本願寺からのメッセージの発信を行っています。
・・・これまでの地上の様子からガラリと変化する地下空間です。
・・・次は「渉成園」へ。