・・・中央区平野町から道修町へ
●「雁行比翼」山口牧生/1985年
設置場所:541-0045大阪市中央区道修町2-6-6塩野日生ビル
・・・この作品に気付く人は少ないだろうなあ。
※1927(昭和2)広島県に生まれる。1950(昭和25)年京都大学美学科を卒業(カントなどを研究)した後、定時制高校教諭を務めながら、大阪市立美術研究所で彫刻を学ぶ。1953(昭和28)年以降、自由美術展、行動美術展、集団現代彫刻展などに出品。1972(昭和47)年ブルーメール賞を受賞。神戸市須磨の現代彫刻展では、1974(昭和49)年京都国立近代美術館賞、1976(昭和51)年神奈川県立近代美術館賞、1978(昭和53)年大賞を得る。また山口県宇部の現代日本彫刻展でも、1975(昭和50)年神奈川近美賞、1979(昭和54)年北九州市立美術館賞を受賞した。大阪府能勢の採石場近くで制作し、黒御影石に条痕を刻み、ベンガラを摺り込む仕事によって、人間の精神と自然の生命力へのオマージュを追求した~2001(平成13)。
◆小城製薬株式会社
541-0045大阪市中央区道修町2丁目5番8号/06-6231-1803
・・・隣が駐車場になっているので、奥の蔵まですべて見渡せて建物の素晴らしさがわかります。
◆大日本住友製薬株式会社(社長:多田正世)
541-0045大阪市中央区道修町2-6-8/06-6203-5321
大阪本社ビル内に創業時の史料等の展示スペースを、2014年3月25日(火)に開設しました。当社は、1897年(明治30年)5月に大阪・道修町に設立し、100年を超える医薬品の研究開発、製造、販売の歴史を刻んできました。江戸時代からくすりの町として知られる道修町とともに築いてきた100年を超える当社のあゆみを一般の方々に広く知っていただくとともに、多くの方にくすりの町・道修町への関心と理解を深めていただきたいと考えています。
●展示概要
創業の精神、長井長義博士の製薬事業発展への貢献、純正医薬品の製造と供給、革新的な医薬品の創出に挑戦する当社の現在の姿など、道修町と当社のあゆみを模型や展示パネル、動画上映、写真映写などにより、わかりやすく紹介します。
◆武田道修町ビル(旧武田長兵衛商店本店)1928(昭和3)年
設計:松室重光(片岡建築事務所)/施工:大林組
541-0045大阪市中央区道修町2-3-6
●杏雨書屋(きょううしょおく)展示室
http://www.takeda-sci.or.jp/business/kyou.html
五代武田長兵衞氏(武田和敬翁)は、1923年9月、関東大震災により東京で貴重な典籍が灰燼に帰したことを大いに痛嘆し、日本・中国の本草医書の散逸を防ぐことが、将来、社会・学界のために極めて有意義であると考え、早川佐七氏蔵書、藤浪剛一氏蔵書などを、機会に応じ私財をもって購入し、後に「杏雨書屋」と呼ばれる文庫を形成しました。ちなみに杏雨とは杏林(医学)を潤す雨の意です。この杏雨書屋は六代武田長兵衞氏に引き継がれ、歳月とともにその内容も増大しましたが、1977年当財団へ寄付を受けたので、1978年4月28日「杏雨書屋」の名称を継承し、本草医書を中心とする図書資料館として開館するに至りました。本館では資料の永久保存を図るとともに、研究者の利用に供し、春秋年2回の特別展示会及び常設展の開催、研究講演会の開催、所蔵図書関係の出版等の事業活動を行っています。
・・・残念ながら日曜は休館です。しかも昨日で展示終了、しばらく展示替えのため休館となります。
◆【くすりの道修町資料館】◆
541-0045大阪市中央区道修町2-1-8少彦名神社・社務所ビル3階/06-6231-6958
大阪の難読地名のひとつである道修町(どしょうまち)は、どうして“くすりの町”とよばれるようになったのでしょうか。道修町を含めた船場地域は、豊臣秀吉が大阪城の三の丸を築城する際、そこに住んでいた町人や寺院を強制的に移し新しく城下町として開発されたとされています。道修町がくすりの町と言われる様になったきっかけは、寛永年間(1624~1644)に堺の商人小西吉右衛門が道修町1丁目に薬種屋を開いたこととされています。やがて、1722(享保7年)、八代将軍徳川吉宗は道修町の薬種中買仲間124軒を株仲間として、中国から輸入された唐薬種や日本で採れる和薬種の適正検査をし、値段を付け全国に売り捌く特権を与えました。明治時代になると、株仲間は解散となり、営業の自由化と共に誰もが組合に加入して自由に商売が出来るようになりました。しかし、悪質な流通業者がいて粗悪品を売りつけたりしても罰する規定はありませんでした。そこで、道修町の薬業者達は、道修町ブランドに対する信用の為、団結して事業を展開していきました。積極的に洋薬を取り入れ、自前で品質検査を行う『大阪薬品試験会社』を設立し、官立の試験所に優るとも劣らない信用を獲得しました。また、有力薬業者達により製薬会社を立ち上げたり、洋薬に対応するため開設した『薬舗夜学校 』は、現在の大阪大学薬学部や大阪薬科大学に発展しました。そこには、少彦名神社の薬の神様に対する信仰をもとにつながり崇敬団体薬祖講が結成されたことにも深い関係があります。現在の道修町は、本社機能が東京にシフトしている製薬企業や、合併して社名が変わったりして、『道修町=くすりの町』とすぐにピンとくる人は昔よりは少なくなってしまったかもしれませんが、今でも薬祖講を中心に、神農祭やくすりの道修町資料館を通じて地域と企業が町ぐるみ一体となった活動を続けています。当資料館は平成9年10月に開館して以来16周年を迎え、累計9万人の皆様に来館いただいております。今後も親しまれる資料館を目指して更に多くの方々にご来館いただきたいと、深澤館長による館内の案内をさせていただきます。ご希望される場合は、必ず事前にお電話にてご連絡ください。
・・・残念ながら、ここも日曜休館です。
◆少彦名神社(神農さん)
ここ大阪道修町(どしょうまち)は、豊臣時代頃から薬種取引の場として、薬種業者が集まるようになっていました。江戸時代になると、幕府は道修町の薬種屋124軒を株仲間として、唐薬種や和薬種の適正検査をし、全国へ売りさばく特権を与えました。薬は、人命に関わるものであり、その吟味は大変難しいものがあります。そこで、神のご加護によって職務を正しく遂行しようと、安永9(1780)年京都の五條天神より少彦名命を仲間の寄合所にお招きし、神農炎帝王とともにお祀りしたのが始まりです。
ご祭神
◎少彦名命(すくなひこなのみこと)-日本医薬の祖神/神皇彦霊神(かんむすびのかみ・万物生成の神)の子。常世の神。国造りの協力神(大国主命)、酒神、温泉神穀霊、まじないなど多彩な能力を持つ。
◎神農炎帝(しんのうえんてい)-中国医薬の祖神/百草を嘗めて効能を確かめ医薬と農耕を諸人に教えた。商売の神。
◆旧小西家住宅(小西儀助商店)
541-0045大阪市中央区道修町1-6-9
薬問屋街の道修町に残る旧小西家住宅は、近代大阪の町家を集大成した和風建築(国の重要文化財)。小西家は、初代儀助(ぎすけ)が安政3年(1856)、京都から大阪道修町に出て薬種業・小西儀助商店(現・コニシ株式会社)を創業したことに始まる商家。現在の建物は明治36年(1903)から3年かけてつくられたもの。主屋裏には奥庭を挟んで衣装蔵および二階蔵がある。衣装蔵は明治45年(1912)の上棟で三階建の土蔵造。建築材も良材を使い、シンプルながらも各部屋や茶室などには凝った意匠や工夫の跡が見られる。居住部の台所の土間には、家族、従業員ら約50人の食事を賄った大きなかまどがあるとか。新社屋へ移転する前は、座敷に絨毯を敷き、机の上にはコンピューターが並ぶという事務所風景が見られたという。現在も関連会社が事務所として使っている(一般公開していない)。
・・・外観だけでも十分にその素晴らしさはわかります。イチョウの新緑と黒い壁とのコントラストがとても美しい。堺筋線「北浜駅」から地下鉄に乗って帰りました。