・・・堺市博物館のつづきです。
●企画展「生誕200年・田能村直入と山水画―堺で夢みた理想郷―」
平成26年3月29日(土曜)~5月11日(日曜)
田能村直入(1814~1907)は、94年の生涯を「文人画(南画)」の制作と振興に捧げた人物です。豊後国岡藩の城下、竹田村(現在の大分県竹田市)に生まれ、今年は生誕200年にあたります。9歳の頃、同郷の画家・田能村竹田(たのむらちくでん 1777~1835)の門人になりましたが、竹田の没後、関西に活躍の場を求めて郷里を出ます。直入の関西における最初の拠点が堺であり、20歳代後半から30歳代前半にかけての約7年間を過ごしました。その後、直入は大坂に居を移し、大規模な煎茶会を主宰して文化人たちとの交流を図るなど、名を揚げていきます。さらに、明治元年(1868)には京都に転居し、明治11年に画学校の設立を京都府知事に陳情、京都の諸派の画家たちを講師陣にむかえて明治13年に開校した画学校の初代摂理(校長)をつとめました。ところで、堺滞在期の直入の画業を支えた人物の一人が、堺で魚問屋を営んだ旧家、古家氏の13代当主、太郎兵衛(号・魯岳1785~1855)でした。魯岳は、中国の「文人」への憧れを基盤として詩や書をたしなみ、同好の人々との交流を楽しむ、いわゆる「文人趣味」に通じた人物でした。本展では、この魯岳との交遊から生まれた堺滞在期の絵画をはじめ、幕末から明治にかけての作品28件を展示し、文化の動乱期に直入が志した「文人画(南画)」の世界に思いを馳せてみたいと思います。
・・・なんと、京都芸大(美大)の初代校長なんですね。
◆大仙公園・日本庭園
590-0820堺市堺区大仙中町(大仙公園内)072-247-3670
堺は古来より大陸文化の上陸地のひとつとして大陸と日本を結ぶ重要な位置を占め、中世には遣明船の基地として大陸から渡来した先進技術や文化を日本文化へ昇華させることに貴重な役割を持つと同時に当時自由都市として栄えました。この日本庭園はこれらの歴史を背景にして作庭されました。庭園様式は『築山林泉回遊式』を用いています。対岸には遥か中国大陸を望む名勝を模して造られており、全国各地で見られるような藩主が作った名庭園とは趣が異なる造りになっています。桃源台に発する水流は、諸処に景勝を織り交ぜながらやがて大海にそそぐ景観を伝統的技術を駆使して、26.000平方メートルの中に盛り込んでいます。 市制100周年を記念し造られたこの庭園は静粛な観賞の場であると共に市民皆様の催し物等に広く利用していただけます。
・・・入ったことがなかったので、今回の大きな目的でもありました。
◆堺五月鯉幟工房・高儀「高田商店」
堺市西区浜寺船尾町東3丁413/072-263-2205
明治初期、玩具商を営んでいた高儀の初代“高田儀三郎”は、お伊勢参りの帰り名古屋で見た紙鯉にヒントを得てイカ(和凧)職人に紙鯉を作らせたところ、これが大いに人気を呼んだという。当時、幸いにも大阪から堺へ通る住吉街道筋には多くの勝間凧(こつまたこ)の職人たちがいた。関西鯉の特徴とも言える鯉本来の姿形を取り入れた鯉幟は「高儀の鯉」として、関西に知れ渡った。明治中期以後、織機の発明により、広幅の白生地に描くようになったという変化があるだけで、手描きによる形状や色使い作成方法など、当初から全く変わらず今日に至っている。現在は五代目高田為八氏と六代目高田武史氏の二人で制作。江戸中期、まだ鯉幟が和紙の頃、広重の絵図には真鯉(黒)のみだった。その後五色の吹き流しが現われ、明治中期に緋鯉が登場。現在では「真鯉(黒)」「緋鯉(赤)」「子どもの鯉(青)」「吹き流し(五色)」でワンセットとなっている。
・・・窓口の方に教えていただいて、まじまじと鯉のぼりを見上げました。
・・・暑くも寒くもなく、のんびりとした気分でお庭を巡らせていただき、とても贅沢な時間を過ごすことができました。
もちろんシメは「抹茶」、そして仁徳天皇稜に参ってきました。