「あしひきの山吹の花ちりにけり井手のかはづは今や鳴くらむ」
(藤原興風)
・・・ということで、歌枕にされるほど有名な美しい声で鳴く井手の蛙を紹介したいと思います。
●井堤寺跡
橘諸兄(たちばなもろえ)は、南山城地域の豪族、美努王と犬養三千代の間に生まれましたが、後に母の犬養三千代が藤原不比等の妻になり、不比等との間に光明子をもうけ、光明子が聖武天皇の妃、光明皇后になったことから、聖武天皇の時代に左大臣という最高の権力に登りつめました。都を平城京から恭仁京に遷都したときの推進役となり、恭仁京に近い井手の別荘で政務に就いたと考えられます。
・・・ちょっと行き過ぎて、
●玉川の駒岩
京都府綴喜郡井手町の玉川沿いの「左馬ふれあい公園」にあります。みごとな馬の浮彫りをほどこされた巨岩(花崗岩)で、「左馬」「駒岩」と通称されています。玉津岡神社に残る古記録には、保延3年(1137)5月6日の年号が馬の後ろ足の横にあったが摩滅してしまったことが記されています。駒岩は、もともとこの場所にあったわけではありません。もとは玉川の水源に祀られていた雨吹龍王祠(水分神社)の傍らにありました。しかし昭和28年(1953)の南山城大水害で、祠もろとも流出し玉川の谷底へ落ちてしまったのです。水害後は見ることは不可能とされていましたが、地元の方々の努力で土を掘り下げ、下から見上げる形で見ることができるようになりました。そして駒岩を中心に「左馬ふれあい公園」として整備されました。元来は神社の雨乞いと玉川の治水のために絵馬として奉納されたものですが、左馬を描くには、左手が器用でないと描けないので、この馬像を彫った人は器用に違いないということから、「女芸上達の神」に変わり、裁縫や生け花、茶道、舞踊など芸を志す人々の守り神として古くから信仰の対象となっています。
・・・説明の台座にも蛙が。
◆蛙塚
JR玉水駅東側、井手水無地区の玉川保育園の裏側はかつて湧水地で、カジカカエルか多く生息していたところです。現在はカエル公園として整備され、カエル像やカエルを詠んだ和歌の碑があります。井手を歌った和歌の中でも蛙に関するものは83首が数えられ、古来より井手は山吹とともに「蛙」の名所としても知られていました。「蛙」とはカジカカエルのことで、美しい鳴き声を聞かせてくれます。井手の蛙は古来、もの悲しい鳴き声を王朝の貴人達に愛され、多くの和歌に歌われてきました。
色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花 小野小町集
音にきく井堤の山吹みつれども蛙の聲はかわらざりけり 紀 貫之
鴨長明の歌論集「無名抄」には、次のように書かれています。「井手の川づと申す事こそ様(さま)ある事にて侍れ。世の人の思ひて侍るは、たゞ蛙(かへる)をば皆かはづと云ふぞと思へり。それも違ひ侍らね共、かはづと申す蛙は、外にはさらに侍らず、只井手の川にのみ侍るなり。色黒きやうにて、いと大きにもあらず、世の常の蛙のやうにあらはに跳り(おどり)歩くこともいとせず、常に水にのみ棲みて、夜更る(ふくる)程にかれが鳴きたるは、いみじく心澄み、物哀なる聲にてなん侍る。春・夏の比必ずおはして聞き給へ」(井手の蛙は大きさが普通の蛙と同じくらいであるが、色は黒く、さほど飛び歩かずいつも水の中にいて、夜がふけるとその泣き声は清らかで、人の心をしみじみとさせる)。
●小野小町塚
地蔵禅院や玉津岡神社の参道の石段を上る手前にあるのが、「小野小町塚」です。小野小町は、平安時代前期の仁明天皇(在位833~50)の時代に宮廷に仕えた女流歌人・六歌仙の一人として有名ですが、その生涯は謎の多い人物です。そのために後世に様々な伝説を生み、終焉の地も、この井手の他に、京都市、秋田県、山口県など全国に及ぶようです。小町は、橘諸兄が創建した井堤寺で出家して寺で余生を過ごしたという言い伝えもあるようで、「冷泉家記」によると、「小町六十九才井手に於いて死す」とあり、また「百人一首抄」にも「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」と記されており、古来「大妹塚」と呼ばれてきたこの井手の「小町塚」は、本物の小町の墓の可能性が高いものとされています。
・・・ようやく「玉津岡神社」に到着です。