ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

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かん1


南海1201形電車

廃車となったモハ1201形10両とサハ1901形2両が水間鉄道に、モハ1201形16両が京福電気鉄道福井支社にそれぞれ譲渡された。水間鉄道に譲渡された車両は、入線当初は南海時代の車番・塗装であったが、すぐにモハ501形・サハ581形に改番され、車体塗装もクリーム色とマルーン(のちに赤色に変更)に変更された。その後、モハ501形の一部は電装解除されてクハ551形となり、さらに車体内外装の更新や塗装変更、雨樋の取り付けなどが実施されて長く使用されたが、1990年の鉄道線の昇圧に伴い、元東急の7000系に置き換えられた。クハ553(南海モハ1240)は、現役最終期の塗装のままで水間観音駅構内の車庫で保存されていました。現在は、旧塗装に塗り替えられています。


かん2


水間寺貝塚市水間638

天台宗別格本山の寺で、水間観音の通称で知られる。本尊は聖観世音菩薩。寺伝によれば、天平年間(729年-749年)に聖武天皇の勅願により行基が開創したものという。病床の聖武天皇の夢に現れた観音菩薩を求め、行基が2つの川が合流する「水間」にやってくると観音の化身である16人の童子に遭遇、誘われて滝に向かうと竜神が現れ聖観音像を授けられたと伝わっています。その滝は、現在の本堂の裏を流れる小川にあったらしく、現在は岸辺に設置されたフェンスに「聖観音菩薩出現の滝」と墨でかかれたボードが設置されています



かん3



かん4


中世より武家による手厚い保護を受けていましたが、紀州征伐の際に紀州勢に与したため、1585年(天正13年)に堀秀政の軍勢に攻められて焼失しました。一時衰退したものの、岸和田藩主岡部氏の帰依を受け、元禄年間には堂宇も再建されました。その後、1784年(天明4年)の火災で再び焼失。1811年(文化8年)に本堂が再建され、1827年(文政10年)には他の堂宇も再建されました。井原西鶴の『日本永代蔵』の第1話「初午は乗て来る仕合」に「泉州水間寺利生の銭」と記されたことで全国的に知られるようになりました。


かん5


水間寺の裏山にある水間公園は昭和51年に開設され、市民の憩いの広場として親しまれています。公園の南麓には、コジイ・アラカシの林が広がり、アベマキ、コナラ、クスノキなどの落葉樹も見られ、手入れの行き届いた林で。コジイ林とそれを囲む落葉樹の林とがまとまった面積を持っいる点でも貴重といわれています


・・・ニャンコにせがまれながら昼食のパンをほおばって、次は「岸和田」に向けて北上します。