大阪城(12)
■京橋川魚市場
江戸時代、京橋川魚市場は雑喉場の生魚市場、永代浜の干鰯市場と共に大坂の於ける3大魚市場であった。その起源は、現地に建てられている大阪教育委員会の説明板によれば「石山本願寺の時期の設けられた鮒市場とされ、、もともとは漁民が京橋北詰に川魚を持ち寄って販売する市のようなものだったと考えられる。」としている。「摂津名所図会」には、川魚市場といっても店頭での商いではなく、漁民たちが持ち寄った川魚を路上で取引している風景が描かれている。また、「1741年(享保元年)に著された『京橋川魚独占販売由来記』によると、慶長年間(1596~1615年)の初め頃に、小出播磨守秀政の指示で、構成員55名、内5人を幹事である年寄とする市場機構のシステムが整えられた。近代に入り、市が機構の変革が進む中で、京橋魚市場は明治末年には中之島6丁目付近へ移転し、1915年(大正4年)に大阪川魚株式会社が設立された。」とあり、その後、他の魚市場と同様、1931年(昭和6年)に新しく出来た大阪中央卸売り市場に吸収された。
■川崎地蔵尊
寝屋川を渡る京阪本線の鉄橋ですが、旧鯰江川は埋め立てられて京阪本線の軌道になったのでこの部分が旧鯰江川と寝屋川との合流点になります。京街道は京橋から東へ向かうのですが、真っ直ぐ進むと京阪本線の下をくぐる地下道があります。この付近が公儀橋の「備前島橋」があった所です。そこをくぐると大川に出ます。川向かいの天満方面へ行く川崎渡があった所で、そこには川崎地蔵尊が祀られていました。立派なお堂です。
■川崎橋
江戸時代、大阪城京橋口から、幕府の役人宅や諸藩の蔵屋敷があった対岸の川崎(北区天満一丁目の一部)へは「川崎渡」が通っていた。明治10年になってこの地に橋が架けられたが、私設の橋で通行料一人三厘を徴収したことによって、「ぜにとり橋」と呼ばれたらしい。この橋も明治18年7月初めの大洪水によって下流の橋ともども流失し、以降再建されることはなかった。現在の川崎橋は、中之島公園と千里の万博記念公園を結ぶ大規模自転車道の一環として昭和53年に架設された。形式は高い塔から多くのケーブルを出し、桁を吊った斜張橋というタイプで、技術的にすぐれ、景観を重要視した橋として、土木学会の賞を受けている。自動車は通れないモダンな橋です。向かいには造幣局の通り抜けがあります。かっては水運を利用した幕府の材木蔵があったところです。両岸ともに桜の名所で春には賑わいます。
「造幣局」の南門は、あの有名な「桜の通り抜け」の入口でもあります。
そして「象印マホービン」ビル前を通り・・・
天満橋南詰にある山中靖三さんの「如春」像を確認して、帰路につきます。