大阪城(11)
■筋鉄門
江戸時代、北外堀と寝屋川の間の三の丸は外曲輪と呼ばれ、米蔵や薪蔵が立ち並んでいたところである。外曲輪の西端には仕切りの石垣が組まれその出入口となっていたのが筋鉄門である。筋鉄門は巨大な薬医門(本柱から控え柱までを取り込む屋根を持つ門)で、明治初期に両脇の石垣上には煉瓦塀が築かれ大阪陸軍造兵廠の正門として使われていた。この門の前に立てば門をフレームとした伏見櫓の姿を正面に望むことができ戦前の大阪城名物の一つとなっていたが、門は昭和二十年(1945)の空襲で焼失。現在は礎石と両脇の煉瓦塀だけが残っている。
■大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)
大村益次郎の構想により明治初年、大阪城内に作られた旧・陸軍の兵器工場で太平洋戦争の敗戦による帝国陸軍の解体まで大口径の火砲を主体とした兵器の製造を担う東洋一の規模を持つ軍事工場だった。ここでは主に火砲・戦車・弾薬類が開発・製造されており、また、鋳造・金属加工分野では当時の日本において最先端の技術水準を持っていたため軍需にとどまらず鋳鉄管や橋梁といった民需も受注していた。当初の敷地は京橋口脇の筋鉄門から太陽の広場あたりまでの旧・大坂城三の丸北部のみだったが、明治末年辺りに玉造口定番下屋敷跡地(記念樹の森、市民の森など)や京橋口定番下屋敷跡地(大阪ビジネスパーク)まで拡張され、最盛期の昭和十五年(1940)には大阪環状線以東の城東練兵場(JR西日本森ノ宮電車区、大阪市営地下鉄森之宮検車場、森ノ宮団地など)まで拡張されていた。東京の靖国神社にある青銅製の第二鳥居は明治二十年(1887)、ここで鋳造されたものであり、現存の靖国神社の全4基の鳥居の内では最も古く、青銅製の鳥居として日本一の大きさを誇っている。また、大阪城本丸西側の内堀に架かる水道管は日本ではじめて製造された鋳鉄管を用いた水道管で現在も現役として使用されている。
明治期の富国強兵政策の下で次々に創設された国営工場は、その後徐々に民間に払下げられていきますが、「工廠」と呼ばれた兵器工場は終戦まで国営(陸軍または海軍の直営)のままで維持されました。工廠が地域社会に与えた影響は大きく、大阪近辺で重工業が発達したのも、大砲などを製造していた大阪砲兵工廠勤務のなかで技術を身につけた工員が退職後、独立したケースが多かったといいます。
戦時中6万人とも言われた砲兵工廠職人の多くは、終戦後に砲兵工廠から程近い東大阪市に移転して、砲兵工廠で磨いた技を使った町工場を開いたので、東大阪市は面積に対する工場の割合では今も全国1位となっています。大阪砲兵工廠の技術の伝統は、日本の大メーカーや東大阪市の部品メーカーに連綿と今も受け継がれているようですが、陸軍の巨大軍事企業であったために終戦直後に関係書類がすべて焼却されていて詳細な記録は殆ど残っていないという。
大阪砲兵工廠は陸軍の機構改革によって大正12年陸軍造兵廠大阪工廠、昭和15年大阪陸軍造兵廠と改称されましたが、しばしば旧名の大阪砲兵工廠で呼ばれました。廠は、「しょう」と読み場所や「処」といった意味を持ちます。したがって、字義的には工廠は工場一般を意味しますが、軍以外はこの文字を使わなかったために、工廠は軍の工場の代名詞となりました。
■守衛舎(便所)
明治初期、京橋口前筋鉄門が表門となった際に守衛舎として建てられた大阪陸軍造兵廠内、現存最古の建築物です。その後、守衛所は表門を入った左側に新築され、当建物は便所として使用されます。戦後は公園管理局の倉庫として使用されていましたが、現在は放置されています。本来寄棟の瓦屋根がありましたが既に失われ、現在はみすぼらしいトタンの片流れ屋根が乗せられています。建物は破損が激しく、特に入口上部は煉瓦が崩れ始めており早急な修理が望まれます。現在危険防止のためバリケードが張られ、大坂城の入り口の一つにも関わらず非常に見苦しい状態です。
・・・「通用門」から「大坂橋」へ
■京橋
京橋は大阪城の北の玄関口に当たる重要な橋で、公儀橋に指定されていた。大阪城を起点として京都へ向かう京街道や野崎まいりで有名な野崎街道を兼ねる大和街道の出発点であった。現在の京橋は、第一次都市計画事業の橋梁改築事業によって大正13年に架け替えられた橋が、昭和5年にスタートした寝屋川の改修事業によって3径間の橋に手直しされたものである。戦中戦後を通じて傷みがひどくなっていたが、昭和56年にその姿が一新された。改装にあたっては大阪城の歴史的な背景を新たに創造できるよう、外装全体は石垣のモチーフでまとめられ、城郭を形成する石塁の力感ある構造が、橋の高欄・親柱に採用されている。また、高欄は歩く人に安らぎを与えるよう、植樹枡を兼ねた構造になっている。橋上照明は太閤秀吉ゆかりの千成びょうたんを模した形となっている。
■大坂橋
川崎橋の架設に先立ち、大阪城京橋口から桜之宮公園にノンストップで行けるよう、京橋と土佐堀通りをまたぐ大坂橋が架けられた。それとともに京阪電鉄をくぐる地下道が設けられたため、現在は大川両岸の遊歩道と大阪城公園とが短距離で、しかも信号にわずらわされずに行き来が可能になった。
※川崎橋は、大川では3番目に新しい1978(昭和53)年に架けられた自転車・歩行者専用橋です。
■寝屋川橋
昭和初期、京阪電鉄天満駅の拡張工事のときに天満橋の上流にあった淀川の中洲を削り、同川岸の湿地帯や寝屋川の一部を埋め立て、国道2号に代わる町路を設け、昭和4年(1929)、ゲルバー式鋼鉄桁橋で橋長94.5m、幅員19.0mの橋が架けられた。現在この橋は、交通量も多く日常生活のみならず災害時の避難路と物資供給路としても重要である。
「天満橋」が見えます。