大阪城(7)
石垣の上でジッと眺めている・・・
古きよき時代の「大坂」を思っているのかもしれませんね。
■石山本願寺跡
明応五年(1496)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現われる初例である。『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。この造営が現在の大阪の町並の原形となったと考えられる。その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。『石山本願寺跡案内板』より
■大阪城公園城内詰所
旧大阪陸軍刑務所「旧陸軍大阪衛戍(えいじゅ)刑務所」。軍法会議で判決を受けた軍人が服役した所だそうです。痕跡はこの門と左右の塀です。
■冠木門
西の丸庭園へはこの門から入園します。北側の高麗門からは入園できません。
■西の丸庭園
昭和6年(1931)、市民による浄財・約150万円(現在の約750億円に相当)を費やして建て替えられた大阪城天守閣。その天守閣を中心に広がる大阪城公園には大手門、千貫櫓、火硝蔵など13棟の重要文化財や、梅林、西の丸庭園などがある。豊臣秀吉の正室・北政所の屋敷があった場所とされている西の丸庭園は、昭和40年(1965)、総面積約64,000平方メートルの芝生庭園として開園。周囲を樹木に囲まれ、天守閣や掘の石垣が美しく眺められる。春はソメイヨシノを中心に約300本のサクラが咲き競い、花見の名所としても有名。開花期間は観桜ナイターも開催され、大勢の花見客が訪れる。西の丸庭園の東北隅には昭和44年(1969)、松下幸之助氏から寄贈された茶室「豊松庵」もある。
・・・やっぱり、松下幸之助さんですね。
■巨大な「水道管」
本丸地区南西側と西の丸庭園地区東側をつなぐように東西に空掘を横切っている。「大阪砲兵工廠」は兵器製造のみではなく、民需用の鋳鉄管や橋梁も受注・製造していた。この「水道管」は日本で初めて製造された鋳鉄管であり、その製造は、明治26年(1893年)2月1日、「大阪砲兵工廠」で開始された。
・・・まだ現役で使われているそうです。
■焔硝蔵
徳川時代の火薬庫で、この中に大量の黒色火薬が保管されていました。徳川大阪城再建初期の頃は土蔵造りでしたが、青屋口の焔硝蔵が落雷で大爆発を起した万治三年(1660年)以降に石造で再建されました。