中之島 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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中之島(3)


水都大阪フェス2013水辺のまちあそび中之島公園 PICNIC RESORT


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-やの1


中之島公園を会場に、マーケット、飲食ブース、音楽パフォーマンス、ワークショップなど水都・大阪を楽しむイベントが開催されていした。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-やの2


ヤノベケンジ

1965年大阪生まれ。大阪と京都を拠点に活動。幼少のときに体験した大阪万博の跡地、すなわち「未来の廃墟」を創作活動の原点と位置づけ、サブカルチャーによる造形美と物語性とを巧みに織り交ぜながら、ロボットや生活必需品などの大型機械彫刻を制作。90年代は、ガイガー・カウンターを装備した《アトムスーツ》を自ら着用し、原発事故後のチェルノブイリを訪れるなど、世紀末的なサバイバル・プロジェクトで注目を集めた。しかし、新世紀を迎えると、制作テーマをリバイバルへと移行させると同時に「太陽」をシンボルに掲げ、「未来の廃墟」から2本足で立ち上がる3mの人形《スタンダ》や、解体されたエキスポタワーの断片から生命の塔を再生させる計画など、次世代に向けてポジティブな想像力とメッセージを強く打ちだしていく。また、2010年発電所美術館での「ミュトス」展では、天井に吊り下げた水瓶に5tの水をしたため一気に放出するインスタレーション《大洪水》を手がけ、予言的なまでに時代に鋭く斬り込む作品で人々を震撼させた。そして東日本大震災後、希望のモニュメントとして、防護服のヘルメットを脱いだ6mの子ども立像《サン・チャイルド》を発表し、太陽の塔の広場や第五福竜丸展示館、モスクワやイスラエルなどの世界規模で巡回を続けている。


・・・おみやげに「サン・チャイルド」のフィギュアを買いました。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-やの3


フローティング・ダックは、政治的意味合いで分割される国境など、この世に存在しないことを知っています。そして、このアヒルが持つ、世界の緊張を和らげる癒しの特性は、あらゆる世代に優しく、親しみやすく受け入れられることでしょう。2007年より、ラバー・ダックは世界中に浮かべられてきました。オランダ、フランス、ブラジル、そして日本へ。ラバー・ダックは、オランダ人アーティスト、F・ホフマンの作品です。


・・・残念ながら、展示会場が離れているので「ラバー・ダック」を見ることはできませんでした。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-やの4


・・・螺旋スロープを上って「天神橋」までやって来ました。


天神橋

文禄3年(1594)に架けられたと伝えられ、当初は橋の名はなく新橋と呼ばれていたが、天満天神社が管理することからしだいに天神橋と呼ばれるようになったという。当初は天満宮が管理していたが、1634年(寛永11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、真ん中に位置する。浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちたらこわいな」と童歌に歌われた。天神橋の架設は上町台地と大坂の北部方面を結ぶという意味で大変重要であり、後に天満組となる現在の北区の一部の発展を約束するものであった。橋が地域を結びつける上でいかに重要な役割を果たしているかは、戦争の経過を追うとよくわかる。大塩平八郎の乱の発生を知った幕府はいち早く三大橋をこわし、反乱軍をふせごうとした。1885年明治18年)7月初めに大洪水により淀川筋の橋は次々と流されたが、その直後1888年(明治21年)に鉄橋化されることになり、天神橋には、ドイツからの輸入品で長大スパン66mのボーストリングトラスが用いられた。天神橋の下に陸地はなかったが、1921年(大正10年)以降、大川の浚渫で出た土砂埋め立てによりさらに上流へ拡張された中之島公園を跨ぐようになった。1934年(昭和9年)には松屋町筋の拡幅に合わせて、ほぼ現在の形である全長219.7メートルの3連アーチ橋となった。主要部の形式は3連の軽快な鋼2ヒンジアーチで、両端には重厚なコンクリートのアーチを置き、全体のデザインを引き締めている。鉄橋の橋名飾板は、現在天神橋北詰に保存されている。1987年(昭和62年剣先側にらせん形のスロープが設けられると同時に美装化がなされ、遣唐使船の陶板ブロックや天満宮所蔵の天神祭絵巻を模写した絵陶板が飾られている。


・・・調べてみると、いろいろ勉強になりますね。