堺市(14)高石市
「大雄寺」門前を流れていた「芦田川」にかかっていた「伽羅橋」は「高砂公園」に移転・保存されているという・・・
堺市+高石市の赤丸ポスト行脚も区切りがついたので、気になった「伽羅橋」を調査することにした。
■浜寺の歴史
浜寺という地名を聞くと、海水浴場・別荘地をすぐ連想する。昭和36年、浜寺・諏訪ノ森・高師浜海水浴場が工業地造成のため閉鎖されるまでは、夏場は、一日10万人もの人を集める関西の海水浴場のメッカとしてその名をはせ、東京でも年輩の方なら結構その名が知られた土地であった。元々この地は、縄文時代から人が定住していたようで、海岸部から東部の丘陵地にかけては大集落の遺跡が随所に存在する。弥生時代以後は、熊野・紀州に通じる街道の風光明媚な要所となったが明治に入り、いち早く鉄道が通じ、交通の便が良い所から快適なリゾート地、そして居住地として発展した。浜寺の地名の起こりは、昔は現在の石津川から高石にかけての海岸部を「高師浜」と呼ばれていたが、南北朝の頃、三光国師(覚明)がこの地に大雄寺という大伽藍を建立し、吉野の日雄寺を「山の寺」と呼ぶのに対して「浜の寺」と呼ばれていたのが、現在の地名浜寺として残ったものと云われている。ちなみに高石も高師が変じたもので、現在では浜寺の地名は、浜寺公園を中心とした「浜の寺」のあった所ということから、昔の高師浜と呼ばれた地域全体の中から浜寺昭和町・浜寺諏訪森町・浜寺船尾町・浜寺公園町・浜寺南町・浜寺石津町・浜寺元町という堺市域のみが浜寺と称されるようになったが、歴史的にみれば現在の高石市の羽衣や高師浜周辺も浜寺地域といって良いであろう。三光国師(サンコウコクシ)覚明は会津出身の僧で比叡山で修行し、応長元年には中国に渡り帰国後、後醍醐天皇・後村上天皇の深い帰依により三光国師の号を受け日本各地に多くの寺院を建立した。現在でも山梨県・千葉県・静岡県・広島県・島根県には、三光国師ゆかりの寺院が数多く点在している。
■「大雄寺跡石碑」高石市伽羅橋駅
堂塔九ヶ所を持つ広大な寺領を有し隆盛をきわめたが、応仁の乱で焼失し、今はその遺構もさだかでは無い。しかし、地名としては浜寺の他にも、伽羅橋、三光川、三光橋、三光台地といった三光国師に関連した名称の場所が今でも存在する。
■伽羅橋/高石市高砂3丁目高砂公園
この石橋は大阪湾に沿って和泉の国を南北に通っていた紀州街道の芦田川(現在の高石市羽衣4丁目628番地先)に架けられていた石橋で、花崗岩を主に一部に木村を使用している石橋である。昔、紀州街道は住吉街道と呼ばれ、江戸時代には紀州街道の名で親しまれ、江戸時代から明治初年まで、和泉の交通及び商業の中心的役割を果たした。伽羅橋と言う名称の由来については、和泉の名称社寺及び伝説をまとめた「泉州志」と言う書物に、「昔、この橋板は沈香なり。ある人これを売って千貫の銭を得た。ゆえに千貫橋と言う」とこんな伝説が記載されており、この橋板に使われていた沈香は熱帯地方に産出する貴重な香木であり、伽羅とも呼ばれたことに由来し、江戸時代には伽羅橋または千貫橋とも呼ばれ人々に親しまれていた。この石橋は、幕末の混乱期に従来木橋であった伽羅橋を石橋に架け替えるために、今在家村(現在の羽衣)の吉次郎氏が発起人となって築造費を集め、百両余りの費用を費やして慶応元年(1865)10月に完成させたもので、激動する幕末に地域の交通整備に努力した人々の存在を示す貴重な文化財である。昭和63年芦田川改修工事に伴い、当公園内に移転保存し、後世に伝えることになった。概要/橋長:11.1m/幅員:4.5m
親柱が残っており、そこには縦書きで次のように4行に分けて彫られている。慶応元年丑十一月吉日一、芦田川 今在家村、伽羅橋、発起 吉次郎。花崗岩製の極太桁は荒削りで、横桁上での継ぎ手位置では桁厚のほぼ半分近くまで削られている。4本の桁石の間には木製桁が3条渡されている。