39助太山古墳
仲津山古墳の南側に、東西に3基の方形をした古墳が並んでおり、三ツ塚古墳と呼ばれています。三ツ塚古墳を構成する三つの古墳は、東から順に、八島塚古墳、中山塚古墳、助太山古墳と呼ばれています。前の二つは宮内庁が管理しており、助太山古墳のみが国の史跡に指定されています。
40中山塚古墳
八島塚古墳と中山塚古墳は墳丘が一辺50メートルの同形同大の方墳です。これに対して、助太山古墳は一辺36メートルと、ひとまわり小さくなっています。これらの三つの古墳は、濠を共有すること、方形の墳丘の南辺を一直線に揃えていることなどから、相互に関連をもってほぼ同時期に造られたことがうかがえます。昭和53年(1978)、大阪府教育委員会が八島塚古墳と中山塚古墳の間の濠の部分の発掘調査を行ったところ、大小二つの木製の修羅が見つかりました。修羅とは、重い荷物を載せて運ぶための、ソリのような道具です。濠底をさらに1.3メートルほど掘り下げた楕円形の穴の中に置かれたような状態で出土しました。修羅発見のニュースは、当時未曾有の大事件として全国を駆け巡り、世間の注目を集めることになります。
41八島塚古墳
現地説明会で修羅を一目見ようと集まった見学者は、長蛇の列を作りました。そのときの様子は、いまだに地元の人々の語り草になっています。ところで、この修羅は、見つかったときの状態から、三ツ塚古墳が造られた後、さほど時間をおかずに濠底の穴の中に置かれたと考えられています。つまり、修羅が作られ、使用されていた時期を知るには、まず三ツ塚古墳の築造時期を知る必要があるのです。二つの説があります。一つは、その時期を5世紀代に求める説です。これは、修羅の発掘調査の際に、濠から出土した埴輪を、八島塚古墳と中山塚古墳に立てられていたものであると認めることなどから導かれたものです。もう一つは、7世紀代に求める説です。これは助太山古墳の観察結果などから導かれたものです。同古墳の墳頂部には巨大な石の一部が露出しており、横口式石槨という埋葬施設の天井石である可能性が指摘されています。また、円筒埴輪や葺石が見つかっていません。これらの特徴から、古墳時代の終末期、古市古墳群の中で最も遅く造られた古墳の一つであるとして、八島塚古墳と中山塚古墳も同様に考えようとするものです。三ツ塚古墳と修羅の年代は、今後とも検討していかなければならない課題であるようです。
42小白髪山古墳
国道170号外環状線沿いにある清寧陵古墳のちょうど向かい側に、小さな築山があります。
古市古墳群の南西部、羽曳野丘陵から東にのびる台地の上に造られた小型の前方後円墳です。西方には全長115mの前方後円墳の白髪山(清寧陵古墳)が一直線上に同じ向きで並んでいて、その陪冢と考えられます。全長46m、高さ4.5m、幅10mほどの周濠がめぐり、墳丘には円筒埴輪が並べられていたようです。白髪山古墳とともに、6世紀前半頃に築造されたと推定されます。