古市古墳群 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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22仁賢天皇陵古墳野中ボケ山古墳


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羽曳野市立文化情報センター(Licはびきの)の北側にありますが、住所は藤井寺市青山3丁目です。


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羽曳野丘陵の下位段丘に築かれた前方後円墳で宮内庁は、この古墳を第24代仁賢天皇の埴生坂本陵に治定して管理しています。墳丘長は122mで、前方部を南西に向けて築かれています。くびれ部のやや前方部寄りに造出しをもち、周囲には濠と堤を巡らしてあります。この古墳は、前方部が後円部に比較して大きく広がり、また後円部よりも2m高い。さらに、周濠の西の角がほぼ直角に築かれているため、片直角型としても分類されています

宮内庁の管理下にある陵墓のため、今までに墳丘の調査が行われたことがなく、内部施設や副葬品に関してはいっさい分かっていません。外堤については、大阪府教育委員会が昭和55年(1980)に実施した調査で、外堤の北西隅付近で周濠とほぼ平行に並べられた4基の円筒埴輪列が見つかりました。その場所は周濠の肩から約11m離れており、埴輪の制作年代は、古市古墳群の中にあっては比較的新しいものでした。昭和56年(1981)の調査では、その埴輪列からわずか数メートル北で2基の埴輪窯が見つかりました。段丘の斜面を利用して築かれ2基とも同時期に操業しており、しかも5~6回の焼成しか行われた様子がありませんでした。窯跡から出土した埴輪は堤の上から出土したものとほとんど特徴に差がなく、窯はボケ山古墳の築造を契機に造られたようです。この窯跡の発見は、大王墓の築造に伴う埴輪の製作と供給のプロセスを明らかにする上で、極めて重要な成果とされています。『日本書紀』は仁賢天皇億計(おけは治世11年の秋8月の崩御し、埴生阪本陵に埋葬したと記述されています。江戸時代中頃の河内の仏僧・覚峰の研究によれば、この陵墓のある字名(あざな)をボケ山と称しているが、ボケはオケの誤りである、としています


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またまた、行ったり来たりになりますが、再度「イズミヤ」までもどります。


23古市大溝

古市古墳群内を通る巨大な水路で、昭和39年(1964)に航空写真を観察していた秋山日出雄氏によって発見されました。その流路は、軽里の前の山古墳の北東側付近から北西方向に延び細池に至ります。細池西側で北西に向きを変え、下田池・上田池と北上し、岡ミザンザイ古墳の南東部で中池・堀川に続き、北西に下ります。更に、高鷲地区の中池を経て、島泉の墓池から東除川に注ぐ流路を主要幹線として復元されています。全長12kmと遺跡の規模が大きいのに比べて、調査規模が小さいためその時期や用途については不明で、掘削された時期が古墳時代後期の6世紀後半頃であれば、物資の移送に係わる運河説となり、7世紀であればこの地域を開拓するための灌漑用水路(灌漑説)として機能したものと考えられています。


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24峯ケ塚古墳

古市古墳群の中では内部施設が発掘調査されている数少ない前方後円墳です。古墳の復元整備に伴う12回の発掘調査で多くの成果を上げました。墳丘は96mで二段に築かれており、外部施設としては南側以外は二重濠を有し、墓域は東西168m×南北148mを測ります。平成3年(1991)の発掘調査で、後円部墳頂付近で新たに確認された石室からは、盗掘を受けていたものの多くの副葬品が発見されました。


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副葬品の中には、銀や鹿角製などの装飾品を付けた大刀をはじめ、武器や武具、馬具など軍事的な副葬品や、装飾品となる金銅製の冠帽や帯金具、魚佩、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉や石製玉類などがあり、総数は3,500点以上に及びます。この古墳は、副葬品や出土した埴輪の特徴から5世紀末頃に築かれたと考えられます。