15仲哀天皇陵古墳
近鉄藤井寺駅から南に200mほどのところに辛国神社があり、その鳥居から近い路上に「参」の字から下が埋まった「仲哀天皇御陵参道」の石柱が立っています。そして神社から南へ300mほどのところに水をたたえた仲哀天皇陵の周濠を見ることができます。
岡ミサンザイ古墳とも呼ばれ、陵名は惠我長野西陵で、第14代仲哀天皇の陵墓に治定されています。築造年代は5世紀後半。墳丘の長さは242メートルで、古市古墳群では4位、全国で18位の規模の古墳。中世に城郭として利用された形跡があり、当初の状態から大きく変化しているようです。また、発掘調査によって外堤から円筒・盾型埴輪などが出土しました。宮内庁によって仲哀天皇陵に比定されていますが、古市古墳群の中でも後期に造られたと見られる点から、推定築造年代と時代が合う雄略天皇陵という説もあります。また、横穴式石室の存在の可能性も指摘されています。
仲哀天皇とは、『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇です。神功皇后の夫で、応神天皇の父とされていますが、実在性を含めて諸事績の史実性には疑いが持たれています。
古市・百舌鳥古墳群内に取り込まれた河内の王の古墳は、その後衰退の一途をたどります。ある王は古市・百舌鳥古墳群の成立時に王としての権能をはく奪され、勝ち残った王もまた大王墳の築造という過度の経済的負担に耐えることができなかったのです。4世紀末まで玉手山に前方後円墳を累々と築き、隆盛を誇った王の同盟は、5世紀の末にはその存在の痕跡を探すことさえ難しくなるのです。この時期は、大王墳の築造地が百舌鳥・古市から離脱する時期でもあるのです。ヤマト政権の側からみれば、河内地域に勢力を誇った王たちの力をそぎ、河内平野を領有した証として大王墳を築いたことで、当初の政治目的は達成したことになったのでしょう。古市・百舌鳥古墳群における最後の大王墳は、藤井寺4丁目にある岡ミサンザイ古墳と考えられます。岡ミサンザイ古墳は、堤から出土する円筒埴輪を参考にすると、5世紀末に築造されたと推定されます。その被葬者は倭王「武」すなわち雄略天皇であったと考えられます。約100年間続いた古市・百舌鳥古墳群における大王墳の築造は、この岡ミサンザイ古墳をもって終了するのです。
その後の大王墳は、一旦、大和南部(橿原市の鳥屋ミサンザイ古墳)に回帰するのですが、突如、摂津北部(高槻市の今城塚古墳)に移動します。次いで古市・百舌鳥古墳群の中間地(羽曳野・松原市の河内大塚古墳)が選ばれ、再度大和南部(明日香村の平田梅山古墳・橿原市の見瀬丸山古墳)に回帰して、前方後円墳による大王墳の築造が終結するのです。6世紀における大王墳の築造は、まさに大和・摂津・河内を回遊するように移動します。それは、領有地に自らの存在の証を記すことに巨大古墳の築造の意味を見い出した行為のようにも受け取れます。約350年にわたって続いた前方後円墳の時代は、見瀬丸山古墳という奈良県最大の前方後円墳の築造で幕を閉じるのです。しかし、この時すでに、新しい政治的権威の象徴として、「寺院」が選ばれ、寺院の時代が始まろうとしていたのです。