12応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)
最も親しみ深い古墳です。それは「誉田八幡宮」が隣接し、また誉田中学校区にあるからです。
遥拝所は、現在、前方部の正面にあります。これは、文久(1861年~1863年)の修築以降のことで、それ以前は、誉田八幡宮のある後円部の方から、つまり背面の方に参道があり、後円部の頂上にある六角形の宝殿まで石段があり、一般の人たちも参拝していたようです。
■応神天皇陵への渡御
誉田八幡宮がお祭りする応神天皇の魂を年に一度、応神陵にお帰しする、たいへんめずらしいこの神事は、誉田の人々によって古くから受け継がれ、〝お渡り〟と呼ばれ親しまれています。儀式の主役とも言える魂をお遷しする神輿は、鎌倉時代の初め、建久7(1196)年に源頼朝によって寄進されたと伝えられ、800年以上もの連綿と続く祭りの歴史を物語っています。社と陵の間を流れる放生を渡り、神輿は応神天皇陵の深い森の中に入ると、陵を巡る濠の手前、陵を護るように築かれた土手の上の一角に安置されます。
古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘長約425m、後円部直径250m、高さ35m、前方部幅300m、高さ36mを測ります。現在、宮内庁によって応神天皇の陵墓に治定されており、内濠と内堤より内側のみを宮内庁が管理しています。外濠と外堤は民有の農地となっていましたが、大古墳の一部ととして、1978年(昭和53年)に外濠、外堤のみを独立して史跡に指定されました。陵号は恵我藻伏岡陵、一般的には応神天皇陵と呼ばれています。
百舌鳥古墳群の仁徳陵古墳(大仙古墳)に次いで2番目の大きさを誇ります。また、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立米にものぼり、大仙古墳を上回っています。墳丘は三段に積み重ねられ、斜面は一面に石が葺かれています。テラスと呼ばれる平坦な部分には推定2万本に及ぶ円筒埴輪が立て並べられていたと考えられます。
5世紀前半頃の築造と考えられています。墳丘のまわりには二重の周濠が巡りますが、東側では先に造られた二ツ塚古墳を避けて少しいびつな形になっています。出土遺物には、円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形の木製品やクジラ・タコなどの土製品があります。