古市古墳群 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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08長持山古墳・・・の石棺


小学校の前をふらっと通りかかって・・・



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道明寺小学校内に、大阪府の有形文化財に指定されている2基の石棺が展示されています。長持山古墳は、現在の道明寺小学校の北東にあった円墳です。墳丘は、直径約40メートル、高さ約7メートルありました。2基の石棺は、それぞれ1号石棺、2号石棺と呼ばれています。長持山古墳が造られ、石棺が納められたのは5世紀後半のことです。そして、石棺に葬られた人物は、東に接する同時期の前方後円墳、市野山古墳の被葬者と密接な関係があったと思われます。明治の初めごろ、日本に滞在していたイギリス人ウイリアム・ガウランド氏は、日本の古墳についての研究論文の中で、長持山古墳についてもふれています。それには、2号石棺について、同古墳の「頂上に(中略)ほぼ全形を露出して」いる様子が、写真入りで報告されていました。その後、昭和21年(1946)に、大阪府教育委員会と京都大学が発掘調査を行い、すでに墳丘上に露出していた2号石棺の北側から、新たに1号石棺を発見しました。1号石棺は、川原石を積み上げて壁をつくり、天井も石で蓋をした竪穴式石槨という施設に覆われていました。そして、石槨内からは装身具・武器・武具・農工具・馬具など、副葬された様々な品物が見つかりました。

2基の石棺は、阿蘇溶結凝灰岩という、阿蘇山の噴火でできた柔らかい石を、工具を用いて刳り貫いてつくられています。いずれも家形石棺と呼ばれるものですが、1号石棺と2号石棺の形を比べると、様々な違いのあることが分かります。1号石棺は、傾斜の強い屋根の形をした蓋と舟底の形をした身からなっています。そして、身と蓋の小口には一対の縄掛け突起がつくり出されています。これに対して、2号石棺は蓋の傾斜が1号石棺よりもゆるやかになっています。身も舟底の形のような丸みが少なくなり、四角い箱のような形に見えます。また、縄掛け突起は蓋の長辺側に二対計四個つくり出されており、これも1号石棺とは異なります。2基の石棺のこれらの違いはつくられた時期の違いを現わしています。そして、まず1号石棺がつくられて納められ、後から2号石棺がつくられて納められたと考えられるのです。2基の石棺は、平成4年から5年にかけて修復作業と保存処理が行われ、現在の展示施設がつくられました。


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09古室山古墳

藤井寺市には前方後円墳が大小合わせて16基あり、6基が史跡に指定されています。西名阪自動車道の高架下の道路が古室2丁目付近でやや急な上り坂になります。この坂を登りきると、北側に小高い丘があり、説明板が立っています。これが古室山古墳です。古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39メートルを測り、国府台地でも高所に位置しています。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばらしいものがあります。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花を咲かせます。これらはいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の長さは150メートルで、古市古墳群の中では中形の前方後円墳に属します。前方部は北東を向いています。墳丘の斜面には石を葺いていました。また、平坦面には円筒埴輪列があり、家・衣蓋・盾・靫・冑形などの形象埴輪も確認されています。人を葬った埋葬施設がどのようなものであったかは分かっていません。しかし、後円部の頂上に板状の石材が見受けられ、このような石材を用いて築かれた竪穴式石槨というものであった可能性が考えられます。古室山古墳が造られたのは4世紀末から5世紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形成が開始された時期にあたり、同古墳群中で最も早く造られた古墳の一つに数えられます。同時期に造られたものに津堂城山古墳があります。これは、墳丘の長さが208メートルの前方後円墳で、同時期のものとしては最大の規模を有しています。これに対して、古室山古墳は墳丘の長さが150メートルと同じ前方後円墳でもひとまわり小さくなっています。当時の社会では、最も権力のあるものを頂点とした、ピラミッド形の身分秩序がありました。そして前方後円墳に葬られたのは、ピラミッド形の身分秩序の上層にあり、それぞれが権力者として認められた人々だったのです。つまり、津堂城山古墳と古室山古墳にみられるような、同時期の前方後円墳の規模の差は、権力者の間の力関係を表わしているということができるでしょう。4世紀末から5世紀初頭の時期には津堂城山古墳の被葬者を頂点とした身分秩序があり、古室山古墳の被葬者もその秩序に組み込まれていたと考えられるのです。


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以前から不思議に思っていたら・・・


10赤面山古墳

古室山古墳の南側に連なって、大鳥塚古墳と赤面山古墳があります。大鳥塚古墳の北側、西名阪自動車道の高架下に小さな土の高まりがあります。一見したところでは単なる土の山のようにも見え、うっかりすると見過ごしてしまいそうです。大鳥塚古墳の後円部に接するように位置するこの高まりが赤面山古墳です。現状からすると、墳丘の一辺が15メートルの方墳と考えられます。人を葬った施設などは分かっていません。この二つの古墳はともに5世紀前葉に造られたものです。そして、その位置関係から、葬られた人物は相互に密接な関係にあったことが推測できます。古市古墳群では、津堂城山古墳や古室山古墳が造られた4世紀末から5世紀初頭には、前方後円墳の被葬者はピラミッド形の身分秩序に組み込まれることによって権力者として認められていました。そして、各古墳は墳丘の形に関係なく、それぞれが単独で立地していました。しかし、二つの古墳が造られた5世紀前葉という時期には、それまで単独で立地していた方墳が前方後円墳の周囲に寄り添うような立地を示すようになります。このことは、前方後円墳の被葬者がさらに大きな権力を身につけたことの現われであると解釈することも可能です。そのような解釈に立つと、以前は古墳の墳丘の形と規模とで現わされていた被葬者の身分秩序が、その立地にまで影響を与えるようになったと考えることができます。具体的には、前方後円墳の立地に合わせてほかの古墳を配置するという方法を採ったのでしょう。いずれにしても、大鳥塚古墳と赤面山古墳が造られたのは、従来の身分秩序が変化しつつある時期でした。そして、赤面山古墳の被葬者は、生前、大鳥塚古墳の被葬者に仕えていた人物で、死後もなお、その力関係は、葬られた古墳の墳丘の形と立地関係により、目に見える形で現わされたのです。


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11大鳥塚古墳

大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110メートルの前方後円墳です。古市古墳群の中では中形で、前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっていて、足を踏み入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の斜面には石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の構造は分かっていません。しかし、変形獣形鏡と位至三公鏡と呼ばれる二面の鏡や、鉄製の剣・刀・矛・矢じりが掘り出されたと伝えられています


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・・・さあ次は、そのすぐ前にある「応神陵」に行ってみましょう。