07仲姫皇后陵古墳
古市古墳群の中で、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)に次ぐ2番目の大きさで、全国では9番目の大きさです。応神天皇の皇后である仲津姫(なかつひめのみこと)皇后の陵と治定(じじょう)されています。以前には5世紀前半頃の築造と推定されていましたが、堤上に巡らされた円筒埴輪の特徴から、円筒埴輪の製造時期が津堂城山古墳の物よりは後で、誉田御廟山古墳の物よりは前であるとみられ、4世紀後半に築造された古墳であると推定されます。先に亡くなった応神天皇の陵の築造推定時期よりもだいぶ前に築造されたことになります。亡くなったすぐ後で陵が造られるとは限りませんが、研究者には大きな疑問が持たれていて、仲津山古墳は仲哀天皇陵ではないかという学説など、諸説があります。誉田御廟山古墳も仲津山古墳も、陵墓ということで発掘調査が一切認められていません。しかし、仲津山古墳が、河内平野で比較的早い時期に登場した大王級の大型前方後円墳であることは、間違いないでしょう。
くびれ部の両側には、後円部に掛かる方壇状の造出しがあります。幅が狭くて深い周濠と幅広の堤は、この古墳の特徴です。周濠は、市野山古墳(允恭天皇陵)と同じようにほとんど空堀で、深さのある様子がよくわかります。どちらの古墳も国府台地の高い土地に造られており、周囲の地形との関係で、もともと多くの水をためることは無理な場所です。堤の上は以前から完全に宅地化しており、改築に伴う発掘調査で堤の概要がわかりました。堤の外側斜面にも葺石が施されており、堤の幅は基底部で45~50m、上面の平坦部が25m前後あります。平坦部の内側(壕の周囲)には円筒埴輪列が確認されました。これらを基に古墳全体の大きさを推測復元すると、総長410mぐらいの大きさになります。堤の部分は民有地化していたために宮内庁の管理外で、前方部の南西側を除いて周濠のすぐ周囲に道路が造られています。おかげで、周濠に沿って歩きながら、フェンス越しに濠や墳丘の様子を間近に見ることができます。北側の直線部分の真ん中辺りには、クスの大木がある澤田八幡神社があります。堤の上と斜面を利用して江戸時代に創建されていますが、現在は境内の真ん中を近鉄南大阪線の電車が通り抜けるという、全国的にも珍しい神社です。
■澤田八幡神社
この神社は土師ノ里駅の西南西約360m、仲津媛陵のすぐ北に鎮座しています。入口には社号標が立ち、石段を数段上がって南に参道を行くと、又、石段があり一の明神鳥居が立っています。その先またも南に向かって参道を進むと藤井寺第7号踏切にぶつかり、参道を分断するように東西に近鉄南大阪線の線路が敷かれています。その踏切を渡ると下の境内で、数本の楠の大樹が聳えています。社殿が建立されている上の境内は斜面上にあり、石段を上がると左右に浪速狛犬がいます。拝殿は向拝のない横に広い割拝殿で、本殿は後ろに回って塀越しに垣間見ることが出来ます。その南側に仲津媛陵が横たわっています。
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社の四社です。」とありますので、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧請した沢田地区の氏神様のようです。
■古室八幡神社
この神社は仲津媛陵西に鎮座しています。石段を上がると社号標と鳥居型の提灯掛けが立ち、参道途中に明神鳥居が立っています。社殿は小丘上に建っているので上の境内までは石段が続きます。途中、下の境内には「とんど焼き」が準備されていました。上の境内入口には昭和49年生まれの狛犬がおり、割拝殿を通して見える本殿縁には陶器製の狛犬がいます。又、境内右側から御祭神でもある仲津媛の御陵が望めます。