04国府遺跡
今から約2万年前の旧石器時代から現代にいたる人々の生活の跡を残す国府遺跡。石川と大和川の合流地点の南西部、市野山古墳(伝允恭陵)の位置する段丘の北東縁部に国府遺跡があります。大正5年(1916)、今から80年ほど前に、この国府遺跡に注目した学者がいました。その学者は、当時京都帝国大学の喜田貞吉講師です。喜田氏は畿内でも最も古くから石器の出土する遺跡として知られていた国府遺跡から採集された石器の中に、普通の石鏃や石槍等のほかに大形で粗い石器があることに着目しました。この石器は、砂利層の下方の粘土層から出土したことを聞き、この大形の粗製石器が縄紋時代より古い旧石器時代の石器である可能性を考えられました。
当時、日本における旧石器時代の存在は、否定的な見解が主流でした。京都帝国大学の浜田耕作教授は、旧石器時代の存否を層位的に確認することを目的として、翌大正6年(1917)に小字「乾」と「骨地」を発掘調査しました。この発掘調査では、縄紋から弥生時代の土器や石器のほかに3体の人骨が発見され、国府遺跡は一躍学会の注目する遺跡となりました。しかしながら旧石器の存在には否定的な見解が示されたため、旧石器時代の研究は、昭和24年(1949)の群馬県岩宿遺跡の発見まで著しい進展は見られませんでした。
岩宿遺跡の発見以降、旧石器の存在が徐々に明らかになっていく中で、国府遺跡も、昭和32・33年(1957・58)に旧石器時代の確認を目的とした発掘調査が再度実施されました。この調査は、近畿地方で行われた旧石器時代の草分け的な調査でした。発掘調査の結果、砂礫層上部に堆積する黄色粘土層より特徴的な旧石器が確認されました。これらの石器の製作方法は、二上山に産出するサヌカイト(讃岐石)を使って、横に長い石片(翼状剥片)を連続的に剥ぎ取っていくもので、「瀬戸内技法」と呼ばれています。この翼状剥片を利用して作られた石器は国府遺跡の名をとって「国府型ナイフ形石器」と呼ばれています。
その後、大阪府教育委員会の調査でも旧石器の良好な資料が確認されています。国府遺跡は、こうした旧石器時代の成果のみならず、縄紋・弥生時代の人骨の出土など古くから学会に注目されています。国府遺跡は学史的にも貴重な遺跡として昭和49年(1974)に国指定史跡に指定され、さらに昭和52年(1977)に追加指定されました。
05衣縫塚古墳
市野山古墳(允恭天皇陵)前方部東側にあり、宮内庁によって允恭天皇陵の陪塚に治定されている、直径約20mの円墳。平安時代の初めに衣縫塚古墳周辺にいた、衣縫造金繼(きぬぬいのみやつこかねつぐ)の娘はたいそう親孝行で、両親が亡くなった後も嫁がずに墓守をしていたといいます。現在、潮音寺にある衣縫孝女碑は、もともとこの墳頂部にあったといわれており、そのため「衣縫塚」と呼ばれるようになったと思われます。
公園の築山のようにしか見えませんので、通り過ぎてから「ひょっとして・・・」と引き返して発見した古墳です。
06鍋塚古墳
近鉄「土師の里」駅の改札を出ると、道路をはさんで正面に小さな山が目に入ります。これが鍋塚古墳です。樹木の生い茂ったその姿は、周囲の雑踏のせいか、ややこぢんまりとした印象を受けます。しかし、一辺50メートル、高さ7メートルの大形の方墳です。現状からでは確認できませんが、濠をともなっていた可能性があります。発掘調査が行われていないため、埋葬施設や副葬品等は明らかになっていません。しかし円筒埴輪列や墳丘斜面に石を葺いた葺石があることが分かっています。また、墳丘の表面では、家・衣蓋・盾・靫形などの形象埴輪の破片が見つかっています。鍋塚古墳の周辺には「沢田の七ツ塚」と呼ばれた中小規模の古墳が数多くありました。ところが戦後の宅地化等の工事のため、次々とその姿を消していったそうです。そして最後に残った鍋塚古墳が昭和31年(1956)、国の史跡に指定され現在にその姿をとどめているのです。姿を消していった古墳の中に高塚山古墳がありました。この古墳は鍋塚古墳の北側にあり、ほぼ同規模の方墳または円墳であったといわれています。発掘調査が行われ、その内容が明らかになっているので、概要を紹介したいと思います。昭和29年(1954)の工事に先立つ調査では、6メートルを超える長大な割竹形木棺とそれを覆った粘土槨が埋葬施設であることが分かりました。内部の副葬品はすでに盗掘にあっていましたが、鉄製武器や革盾・農工具類・ガラス小玉・管玉が残っていました。また、墳丘が姿を消した後の昭和60年(1985)に、大阪府教育委員会が近鉄線と府道堺大和高田線の間にわずかに残された空き地を調査し、一段目のテラス面とそこに立てられた円筒埴輪列を見つけました。鍋塚古墳と高塚山古墳が造られたのは5世紀前葉のことです。南側にある大形の前方後円墳、仲津山古墳も同じころに造られており、両古墳は、その陪塚として密接な関係にあったといえそうです。かつて「沢田の七ツ塚」と呼ばれた古墳の中で現在も地上に姿をとどめているのは鍋塚古墳のみになってしまいました。道を行き交う車や人とは対照的に、そのかたわらでひっそりとたたずむ姿を見るとき、悠久の歴史の流れをひしひしと感じずにはいられません。