高野街道(100)
区切りとしての「100」をどうするのか・・・三つ目の「丹生神社」に行くしかないだろうと・・・
まずは・・・
■南海高野線「高野下」駅
交換設備を備えた島式1面2線のホームを持つ盛土駅である。ホーム有効長は17m車4両分。難波駅寄りには事業用車両の留置線があり、西側には昔の貨物ホーム跡が残っている。臨時特急停車駅でもあった。駅舎はホームの東側にあり、ホームとは構内踏切で連絡している。日中の一部の各停と夜間の急行は当駅折り返しになり、直接なんば方面行ホーム(2番線)に入線する。また、折り返し列車停車中に難波方面の特急「こうや」が本来下り線である1番線を通過することもある。2009年3月、「こうや花鉄道プロジェクト」の一環として、2番線ホームの線路際に花屏風が設置された。当駅には12種類・約790株の花が植えられている。駅の東を不動谷川が流れている。国道沿いに昔ながらの集落が見られる。駅舎の真下にある道路はかつて存在した高野山森林鉄道の路線を整備したものである。2010年12月8日、「こうや花鉄道プロジェクト」及び高野線全線開通80周年記念事業の一環として、当駅のホームに「南海思い出ミュージアム」が新設された。全国の大手私鉄の駅の中で初の試みである。駅舎の駅名板が昭和初期のデザインに、ホームの駅名標がこうや花鉄道タイプのものにそれぞれ置き換えられた他、展示ツリーと展示ケースが設置された。展示ツリーには、国内外5社の古レールを固定して展示している。また、展示ケースには、レールに固定された犬釘や実際に車両に取り付けられていた社章マークなどを展示している。この他、ホーム上屋に3ヶ所ある古レールを読みやすくするために研磨すると共に、刻印されている内容も表記される様になった。橋本駅 - 極楽橋駅間は山岳路線であり、特に高野下駅以南は50‰の勾配や、制限速度33km/h、半径100m以下の急カーブが続く登山鉄道となっているため、この区間に乗り入れる列車にはズームカーと呼ばれる17m級の2扉中型車両が専用車両として使用されている。山岳区間、とりわけ高野下駅 - 極楽橋駅間においては完全に線路が山の中に入るために、途中にある駅へは幹線道路からすれ違いの困難な狭い道路や林道があるが、車で辿り着くには容易でない。各駅の周辺の山間部は民家が少なく利用客もきわめて少ないが、すべての駅に簡易型の自動改札が完備され、駅員も夜間には無人になるが紀伊清水駅、下古沢駅以外のすべての駅に配置されている。上古沢駅と下古沢駅の間には、鉄道橋としては日本で10箇所だけで供用されているトレッスル橋(全長67.6m、高さ33.4m)の中古沢橋梁があり、南海電鉄が2010年2月25日にみずから設置した観光用の展望デッキと電車の通過時刻を記した時刻表を備え、トレッスル橋を下から見上げられる。展望デッキまでは上古沢駅・下古沢駅から徒歩20分の道のりである。九度山駅 - 極楽橋駅間には、もっとも長い「椎出トンネル」(九度山駅 - 高野下駅間、399m)をはじめ、大小24箇所のトンネルがあり、このうち高野下駅 - 極楽橋駅間の23箇所には坑口に番号が振られている。
■椎出鬼の舞・椎出厳島神社
椎出厳島神社で、天災や悪疫の退散、五穀豊穣を願い、8月16日午後5時頃から奉納される神事です。髪の赤い鬼が長い棒を振りかざし、太鼓や笛にあわせて繰り広げる舞は日没まで続きます。この鬼の舞は県の無形民俗文化財に指定されています。
駅周辺を散策していると・・・
またまた「天空」に出会ったりして、これもお寺や神社におまいりしたご利益なのかなあと思います。さあ・・・「玉川峡」に向かいます。
■玉川峡
九度山の北で紀の川に合流する丹生川上流にあり、澄んだ清流に奇岩怪石と大小の滝が独特の自然美をつくる景勝地。渓谷に沿っていくつものキャンプ場が点在しています。県の名勝に指定されていて、春は桜、6月はホタル、もっとも賑わう夏には水遊びやキャンプと鮎釣りのシーズンで、秋は狭い谷あいに紅葉が映えるなど、訪れる楽しみがたくさんあります。
■河根丹生神社
空海上人のすすめで南大足ら六人の長老は丹生都比売高野御子の二神をゆかりのある塩の瀬に祀っていたが藤原時代に社殿がすたれたので河根東郷丹生川の三村が、分け祀ることとなり河根村は現在地の宮垣内に社殿を建ててここに迎え氏神として敬ってきたと伝えられている。永正十四(一五一七)年 延宝六(一六七八)年に社殿を改築した棟札が現存する。明治五年社殿改築同六年村社となり、同四十五年上庄田谷の厳島神社を合祀、昭和七年屋根替を行うその間拝殿、神饌所、鳥居、手水舎、端垣、玉垣などが整えられ東高野街道唯一の名所として栄えてきた。宝物としては狛犬として県下最古の應永二十六(一四一九)年の銘がある石造狛犬一対(県有形文化財)翁の面二面など数々の文化財を保存している。
丹生川は、毎年のようにキャンプや釣りに来ていたところですが、まさかこのような街道めぐりで再発見するとは・・・
■中屋旅館
江戸時代、河根宿の本陣として栄えた中屋旅館。日本最後の仇討ちを遂げた村上兄弟ら7人が宿泊し、作戦を練った場所である。
■千石橋と二里石
千石橋のたもとに建つ八坂神社、その左にあるのが高野街道「二里石」です。造るのに千石かかったという江戸時代に架けられた千石橋。おそらく水銀が出たのだろう、やがて紀ノ川へと注ぐ丹生川を渡ると、対岸から高野町となる。この千石橋を渡るとすぐ作水坂の急登となる。この道が高野山まで続く。河根集落を越え、播州赤穂藩からやってきた仇討ち一行と、やがて討たれる一行が通った山道である。ここは良寛も登っていて、「作水坂というふところに里の童の青竹の杖を売りたりければ」という一文のあと、「こがねもて いざ杖買わん 作水坂」の句を読んでいる。
とうとう「二里石」まで確認することができました。次は「一里石」ですが、それは「高野街道」ではなく「高野山」という新シリーズで紹介できたらと思います。
長らくお付き合いありがとうございました。