高野街道(83) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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高野街道(83)


田植えを終えたばかりの田園風景は、見飽きることはありません。



すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-だい1


小さなお寺だからこそ、その田園風景に溶け込んで素晴らしい。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-だい2


国道へ再び出る前に・・・


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-だい3


田園風景の奥にある・・・


■蛭子神社/慶賀野

当神社は、事代主命を主祭神とした、いわゆる「えべっさん」の愛称で、一村の産土神として、村人に崇敬されている。神社の創立時期については不詳であるが、資料として「永享六(一四三四)年奉造営蛭兒大明神玉置丹治重政」の棟札と、「宝永三(一七〇六)年五月吉祥日奉納蛭兒大神宮御厨子造紀州伊都郡相賀荘内谷内慶賀野村左大臣奥石二十七世孫北村氏重」の奉納札が残っている。神社の鎮座する地は、延暦十五(七九六)年に開かれた、紀伊見峠を越す南海道(高野街道)沿いにあるが、当時のことは全く不明で、ようやく南北朝時代の天授三(一三七七)年八月の古文書に「慶賀野村」の名称が表れて来る。「慶賀野」の字句からみて、何らかの戦勝の祝と関係があると伝承されている。丁度、神社の東南四〇〇mに在る小高い山(標高三〇〇m)は、通称「城山」と呼ばれる「長藪城址」で、平安時代に坂上田村麻呂が砦を築き、その後、平將門九代の子孫平政房がこの砦にこもったと云う説と、嘉暦二(一三二七)年土屋義方五郎左衛門掃門丸が築城したとの説があるところからみて、これらの武将が、戦勝の祝をしたのであろうと思われる。また、築城の時期、村名の表れた頃、更に現存する資料等から推測するに、神社創立は、一四〇〇年前後と考えられる。



すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-だい4


さあ国道にもどろう・・・


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-だい5


国道に出てすぐ・・・


■「一願地蔵」の看板がありましたので、寄せていただきました。