高野街道(70)
・・・やっと、ここまで来ました。
■八里石(新高野橋北側脇)
昔の旅人は1日に8里(約32キロ)ほどは歩いたといいます。大阪から高野山までは16里で、大阪(または高野山)を朝、出発すると夕方につくのが8里目の三日市町周辺でした。そのおかげで三日市町周辺は宿場町として栄えたわけです。
街道を南へ進むと、新高野橋があります。その袂に「高野山女人堂へ八里」の里程標が建っています。この里程標は、安政4年(1857年)狭山茱萸木村の住人、小左衛門・五兵衛二人が発起人と成り、施主を募り、建てられた物です。西高野街道の起点である、堺の大小路橋より、高野山女人堂までの14里を、一里毎に13基が、同年2月から9月の間に、一気に建てられており、全てが現存しています。
・・・もちろん、次にめざすは「七里石」です。
この旧街道を抜けると、国道371号線に合流します。
■新町庚申堂
新町のあたりを進むと、西側に石柱と鳥居が見えてきます。鳥居をくぐると、明治14年(1881年)に建立されたという本堂があって、正面には「一国一宇庚申堂」の額が掲げられ、中には高さ約2メートルほどもあるという立派な木造の地蔵菩薩坐像が安置されています。はじめは「法当山 地蔵寺」という天台宗のお寺でしたが、江戸時代初期に庚申さんを祀るようになり、河内第一の庚申堂として、庚申参の日にはとくに賑わったといいます。庚申と言うのは、干支の一つで「かのえさる」とも読みますが、庚申の日に当たるのは、60日に1日、1年間に6回有ります。中国の道教では、この庚申の日に、人間の頭と腹と足に住んでいる「三尸(さんし)の虫」(彭侯子・彭常子・命児子)が、人間が寝ているあいだにこっそりと天に上って、天帝(閻魔大王)に悪事を報告するという伝説があります。そこで三尸の虫を天に登れないようにするため、村中の人達が集まって、徹夜で酒盛りなどをして一睡もせずに夜を明かして、健康長寿を祝うという民俗信仰と風習が生まれました。
・・・「石仏」という地名から考えて、お寺があるに違いないと探しましたら、やっぱりありました。
■石仏寺
「いしぼとけ」と読みます。記録では「曼陀羅山 阿弥陀寺」という天台宗のお寺でしたが、のちに融通念仏宗に改められて、江戸時代には非常に栄えた寺院でしたが、明治8年(1875年)に廃寺となりました。しかし観音講の皆さんが管理して、平成17年(2005年)3月には地域住民たちの力で、新堂が完成しました。本尊は石造りの阿弥陀如来ですが、「河内鑑名所記」では「弘仁年間(810~823年)に、弘法大師が讃岐国で修行中に瑞光を放つ3つの石を見つけて、阿弥陀、天照大神、春日大明神の三尊を彫刻して、それを当地に置いた」というように記されています。伝承では弘法大師の手作りの石仏ということですが、戦火などにもまみれたようで、損傷が激しいのが惜しまれます。このほかにも享保9年(1724年)銘の宝篋印塔、享保12年(1727年)銘の供養塔、元文4年(1739年)銘の弘法大師像なども安置されています。
・・・ついでに、この近辺の寺社を訪問してみることにしました。
■加賀田神社
「加賀田神社創建の年は詳ならず、単に11月卯日に宇佐八幡を勧請したり」(大阪府全志巻之四)と、又「当山社地縁起由来書記録並座衆由緒調書之事」(1859年)によっても「それ当氏神鎮守八幡宮は、往古宇佐八幡宮を勧請奉り」とあるとおり、いつ創建されたかわからないが、「文明11年(1480年)社殿を再建せり」とあるので、520年以上の歴史をもっていることになります。慶長4年(1599年)作成の社地境内有姿の図(現存)によると、本殿拝殿 経堂 玉垣の外の境内には泉福寺があって、奥ノ坊・北ノ坊・南の坊・宮の坊・薬師堂がある立派なものであった。ところが、文禄3年(1595年)秀吉の検地によって社領を没収され、無禄になった為に坊舎は漸次頽廃して、僅かに本殿拝殿 末社神具庫及び薬師堂だけになった。元禄16年(1703年)氏子で堺に住んでいた谷善右衛門が私財を投じて社殿を改修したのが現存の本殿である。嘉永6年(1853年)火災で拝殿・薬師堂・中門玉垣が焼失し、安政5年(1858年)になって再建し、現存の社殿になった。明治41年(1908年)唐久谷村社の和佐神社素盞嗚命たかおかみを合祀され、更に石仏村の上山八幡宮誉田社別命と天神さん(菅原道真)が合祀された。
・・・気になっていた「延命寺」まで行ってみよう。