東高野街道(55)
■「膳所藩代官所跡」河内長野市古野町/長野保育園横
京の都と仏教の聖地高野山を結ぶ高野街道は、平安時代の皇族、公家や、中世から盛んになる武士、庶民の高野山参詣に利用されました。江戸時代、ここ本多町の交差点から東には、膳所藩代官所がありました。当時、錦部郡(河内長野市一帯)に領地を持っていた膳所藩は、ここ古野村に河内代官所を置きました。この代官所については、大津市にある膳所藩資料館に明治四年七月の絵図面が残されていますので、その様子がわかります。陣屋は、保育園の北東に位置し、広さは300坪を超え、北側に門を配置していました。中には大小の蔵や白州が設けられ、犯罪人を入れる牢屋までありました。この代官所には、役人が3人勤務し、他に足軽などの下段が勤めていたようです。藩の村方支配は、郡奉行-地方役-郷代官-村役人という機構になっていました。郡奉行は約四人で月番交代、地方役も約七人いたといわれています。地元から採用された郷代官は、支配する十数か村の民政を受け持ちました。もめごとの調停もしますが裁判権はありませんでした。白州で裁くのは郡奉行以上の役人でした。
・・・自転車置場のようになっていて、ちょっと寂しい気がしますね。
■案内板「東高野街道と河南鉄道」国道310号をまたぐ近鉄ガード下横
明治31年(1898)高野鉄道(現南海高野線)の開通に伴い、河内長野駅前が整備されました。続いて明治35年(1902)河南鉄道(現近鉄長野線)が開通し、新しい河内長野の発展の中心地としての基礎となりました。この案内板は、平成15年に拡張工事が完成した際、近畿日本鉄道によって造られたものです。案内図の土台となっているレンガの塊は、近鉄長野線の前身河南鉄道が、明治35年(1902)河内長野駅まで開通した当時の、線路を支えた橋台に使われていたものです。今回の改修、拡張工事までの100年余に及んだ役目を終え、このような形で残されています。街道案内図には、市域の高野街道と主な名所旧跡が、又、案内板には、東高野街道についての簡単な説明文があります。
・・・こんなところに案内板があるなんて、今まで本当に気がつきませんでした。
・・・ようやく駅前に到着です。
■駅前モニュメント
河内長野ロータリークラブが、平成18年3月に創立45周年事業として設置されました。
・・・街道に興味を抱くまでは、動く彫刻の方に気をとられていました。この作品は、きっとあの有名な「新宮晋」さんだと思い込んでいたのですが、この機会に確かめてみることにしました。
・・・地面に埋め込まれた半球には「wing 8903 kiyoshi」と刻まれていました。いろいろ調べてはいるのですが、それ以上のことはわかりません。
■駅前のクスノキ
高野街道とは直接関係はないようですが、かって駅前から七つ辻にかけてクスノキの並木があり、地元の人たちの守り神的な存在だったようです。駅前再開発に伴い、すべての木が伐採されることになりました。地元の人たちのクスノキに対する愛着は強く、反対運動が高まり、結局、一本だけ残されることになりました。現在、広場南隅の盛り土の上に立っていますが、あの高さが元の地面の高さだそうです。今も楠木には注連縄が張られ、楠姫大明神、白玉大明神として信仰の対象となっています。
・・・ふるいものとあたらしいものが共存共栄できる開発、活性化はとてもむずかしいですね。