東高野街道(47)
■城山の飛び火とゆうれい松(大阪の伝説より)
羽曳野市の城山、高屋という所に、むかし、畠山氏がきずいた高屋城がありましたが、永禄年間(1520年ごろ)、三好一族の大軍に破れ、さらに50年後には、織田信長の河内攻めで城は焼け落ち、おおぜいの武士や女たちが自害(自殺)し、うち死にする悲しい結果になりました。そこで、城下の町人や百姓たちがくようの堂を建て、マツを植えましたが、マツはひょろひょろと20メートルもの高さにのび、ゆうれいのようでした。そして雨の夜には、人だまが飛び、人びとをおそれさせました。今では住宅地になり姥不動尊だけがまつられています。
・・・なかなか前に進みませんが、羽曳野の伝説は珍しいので、どうしても紹介しておきたかったのです。
■地蔵菩薩
サンスクリット語クシティ・ガルバは、 仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶお菓子が供えられている。一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守るという民間信仰もあり、子供や水子の供養でも地蔵信仰を集めた。関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われる。また道祖神と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。
・・・こういう雑学も「街道めぐり」の楽しみです。
さて、街道は富田林に入った頃から旧国道170号線と重なり南下します。
■美具久留御魂神社
この付近は喜志台地、尺度、蔵の内を包含した弥生時代の水分文化圏の中心地である。出雲軍の上陸の地、かつ居住地であったとされている。河内の先住支配者の斎祀った神社である。ここから2km北で銅鐸が発見されている。『社頭の略記』には、崇神天皇の御代、この地に大蛇が出没し、これを大国主の荒御魂のしわざとし、ここに奉斎したのが創始であるという。また日本書紀には丹波の国氷上郡の氷香戸辺が神懸かりして「玉もの鎮石。出雲人の祭る。真種の甘美鏡。押し羽振る、甘美御神、底宝御宝主。山河の水泳る御魂。静挂かる甘美御神、底宝御宝主。」(訳)「玉のような水草の中に沈んでいる石。出雲の人の祈り祭る、本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。」と宣託したとあり、皇太子の活目尊が創始したと伝えている。『日本書紀 崇神紀』六十年に、吉備津彦らを出雲に派遣し出雲振根を誅したので、出雲臣等は「この事に畏れて大神を祭らなくなった。そこで丹波の氷香戸辺の託宣があり、皇太子が天皇に奏して祭ったとの記事があります。この「祭った」と言うことを『岩波文庫注』では、鏡を出雲臣に返却したものかとしていますが、それなら皇太子が祭ったとは言わないはず、この事は出雲大社に替わって美具久留御魂神社を創建し、出雲大神を祭ったと理解すべきだろう。千早赤坂村の建水分神社を上水分神社というのにたいして下水分神社と称する。また恩地神社を下水分と呼ぶ向きもあり、この場合には中水分となる。和爾池の西側だから和爾社とも云われた。
・・・鳥居からずいぶん西への寄り道になるので、どうしようかと迷いましたが、この機会を大切にしたいと思い、あえて寄り道することにしました。
鳥居をくぐってすぐに「粟ケ池共園」がありました。石碑とネーミングと橋に惹かれて少し散歩してみました。
富田林市民会館には何十回と来てるのに、ここは初めてです。なんと・・・こんなに「ため池」があるんですね。まさしく「水」がキーワードのようです。
さらに、市民会館の生垣の中に「和爾宮別宮」を発見。どれだけの人がこの「別宮」の存在を知っているでしょうか。私はラッキーです。これも「水」にかかわる「龍神」・・・が祀られているのです。