東高野街道(46)
「南阪奈道路」をくぐったあたりの旧地名は「水守」である。
調べてみると、やはり田畑の水に関する重要な地域であった。そして、「カンコ田」と呼ばれる地域であったと書かれていた。
【参考1】カンコ箱
木製の流し箱を「カンコ」と呼び、養魚業者が金魚などの飼育や選別に用いています。
・・・実際に田畑でこんな箱が使用されたのだろうか?それとも田畑の景色がこのように見えたのだろうか?
【参考2】「カンコ」(平底の木造和船)
「カンコ」は平底で、櫓と櫂で操船した。5~6mの小型の「カンコ」は、手繰り網や刺網、延縄漁などの個人操業をする小商売の漁師たちが用いた。
【参考3】佐渡市両津地区「両津郷土博物館」
両津郷土博物館は、旧両津市の加茂湖に面した高台に所在する。この博物館には「北佐渡の漁撈用具」として外海府・内海府・両津湾・加茂湖で用いられた木造船をはじめとする漁撈用具が収蔵されている。展示室には、海と湖で用いられた代表的な和船が6艘展示されている。海船が、大型の「猟舟」、小木の磯舟とほぼ同型の「カンコ」、平底の「コブネ(サンマイハギ)」、湖の船が、「テンゲ」・「ゴリブネ」・「ハコブネ」である。猟舟とカンコは5枚構造を持つ。コブネはマルキヅクリから変化したといい、以前はシキに刳材を用いていたのだという。いわゆる準構造船の系譜に連なるものなのであろう。内水面で使用された3艘については大きさ・形状が少しずつ違うが、明確なミヨシ材を持たない点が共通する。なお、海の船と湖の船は明確に分かれるが、湖の船が海に出ることもあるのだという。また一人乗りの漁船として使われるのは基本的にたらい舟なのだという。さて、収蔵庫には各種民俗資料に混じり10艘の和船が収蔵されている。収蔵されているのは「カンコ」・「テンマ」・「テンゲ」などである。なおカンコ・テンマともに5枚構造のものだが、テンマはアバラ材が入れられたものという差異がある。氷見はじめ他の地方では、テンマが3枚底、カンコが平底(1枚底)の比較的小型な船に付けられた名称であるが、佐渡ではいずれも3枚底の船の名称となっている。カンコについては刳舟が語源という説もあるのだともいう。
【参考4】刳舟(えぐりぶね・くりぶね)
丸木舟は木の幹を刳りくぼめて作った舟。刳舟ともいい、独木舟とも書く。舟のなかで最も原始的な形をとどめるもので、世界各地で用いられたことが知られている。
【参考5】「軽古(かんこ)舟」
約440年の歴史がある三次の鵜飼で、遊覧船や「軽古(かんこ)舟」と呼ばれる鵜舟を造ってきた三次市無形文化財技術保持者・光森賢治さんが昨年末、78歳で亡くなった。技の継承者が育っておらず、市観光協会は、川舟造りを山口県岩国市の造船所に依頼。地元の伝統が途絶えることになったが、市民らは「大切な地域資源の灯を消さぬよう、何とか鵜匠の技は継承を」と願っている。三次の鵜飼に使われる遊覧船は、岐阜・長良川などの「屋形舟」と違い、急流や浅瀬でも自在に操れる全長9~10メートル、幅1~1・8メートルの細長い形が特徴。光森さんは県内唯一の川舟大工で、1999年に三次市無形文化財になった「三次の川舟」の技術保持者だった。合併前の旧市教委は2002年、伝統技術の継承のため国の補助を受け、川舟大工と鵜匠の養成講座を開講。舟造りは光森さんを講師に家族ら5人が受講し、川舟造りの技を学んだ。しかし、年間3~5隻の注文で舟造りだけでは生活できず、勤め先を辞めて取り組んだ光森さんの家族も、やむなく再就職。継承者が育たないまま、光森さんは昨年12月30日に亡くなった。川舟は耐用年数5、6年で、今年は新造予定がなく、6月1日開幕の観光鵜飼では鵜舟3隻と遊覧船14隻を運航。簡単な修理は船頭会が行う。市観光協会は、耐久性に優れたグラスファイバー舟も検討したが「風情がない」と断念、光森さんが残した舟を測量して図面を作り、岩国市の「錦帯橋鵜飼」の舟を造る造船所に遊覧船の製作を打診した。設計図を見た舟大工歴20年の橋本敏夫さん(80)は「特殊な形の舟。手掛けたことはないが、経験を生かして納得してもらえる川舟を造りたい」と話した。三次市観光協会は「技の継承はできなかったが、市と連携し、市民に愛される安全な鵜飼を後世に伝えたい」としている。観光鵜飼は8月31日まで開催。昨年は県内外から3365人が乗船し、今年は中国横断自動車道・尾道松江線の部分開通効果で4500人を見込んでいる。
三次の鵜飼いは、戦国時代、尼子と毛利の合戦に敗れた尼子の将兵がふるさとを偲んで始めたとされています。江戸時代初期、三次浅野藩の初代藩主浅野長治(あさの ながはる)は、鵜匠制度を設けて鵜飼いを保護し、軽古形(かんごがた)を提案した人とされています。「軽古形」(かんごがた)全長9m、幅0.9m、深さ0.5mの細長い舟で、急流や浅瀬でも自在に操ることのできる舟。
440年余の伝統技法が織りなす三次の夏の夜を彩る風物詩「鵜飼」に無くてはならないのが、鵜舟であり、その舟大工が「匠」光森賢治さんでした。15歳から建築大工、そして舟大工一筋の匠には、図面は無く、長年の勘と経験で見事な木製笹舟を作り上げました。三次の鵜飼いの鵜舟は、岐阜・長良川などの「箱舟」ではなく、細長い形が特徴です。
・・・「カンコ舟」と解釈した方が、この地域の石川や水路にふさわしいかもしれない。そのような舟が水路の水門を開閉したり見回りしたりしていたのだろうか?
【参考6】咸古神社(かんこじんじゃ)富田林市龍泉886
富田林市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。嶽山(龍泉寺山)中腹の牛頭山龍泉寺の北側にあり、江戸時代までは龍泉寺の鎮守社であった。神八井耳尊を主祭神とし、天太玉命を合せ祀る。一帯はかつて紺口県(こむくのあがた)と呼ばれる地域であり、紺口県主が祖神として神八井耳命を祀ったものとみられる。ただし、江戸時代までは牛頭天王が祀られていた。天太玉命は明治時代に合祀した式内・咸古佐備神社の祭神である。創建年月は不詳である。咸古神社では、隣接する龍泉寺の寺伝より弘仁14年(823年)正月の創建としている。龍泉寺は推古天皇2年(594年)に蘇我馬子が創建した寺院と伝えられ、寺伝ではこの地にある池に住む悪龍を蘇我馬子が鎮めたものという。その後、池の水は枯れ、寺も廃絶した。弘仁14年正月8日、弘法大師(空海)が当地で加持祈祷を行うと、龍が再来し水が再び豊かになったので、このときにできた池の中の3つの島に聖天・弁財天・叱天を祀り、牛頭天王を鎮守としたと伝えられる。南北朝時代、楠木正成が龍泉寺山に龍泉寺城を築いたため兵火にかかり、堂宇のほとんどを焼失した。明治の神仏分離により、牛頭天王を祀る鎮守社が龍泉寺より分けられ、式内・咸古神社に比定され、祭神を神八井耳尊に改めた。明治42年12月2日、近隣の式内・咸古佐備神社を合祀した。
・・・「龍神」にかかわり、豊かな水をつかさどる場所という意味なのだろうか?