東高野街道(36) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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東高野街道(36)


これまでは羽曳野市から北へと進んできましたが、「石切」を区切りとして、今後は進路を南へと切り替えることにしました。


その再出発にあたり、まずは羽曳野(古市)を丁寧に案内するべきだと考えました。これまでも紹介してきたので重複する部分もありますが、住人ならではの詳細な情報を掲載し、遠方より訪問される方々が迷うことなく、街道めぐりを楽しんでいただきたいと思います。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-いち1


上地図の北端、(A)から順に案内いたします。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-いち2


・・・8~9割の方が迷われると思います。


(A)誉田史跡公園薄田隼人正兼相の墓羽曳野市誉田丁目

元和(げんな)元年(1615)、大坂夏の陣の際、徳川家康らの軍勢が攻める大坂城で、秀頼とその母、淀殿は自害し豊臣氏は滅びました。このとき、誉田、藤井寺市道明寺付近一帯は、大坂城をうかがう徳川方と、それをはばむ豊臣方とが激しく戦う「道明寺合戦」の舞台となりました。秀頼に仕える薄田隼人正兼相は誉田八幡宮付近の誉田林に陣をかまえていましたが、奮戦の末に討ち死してしまいました。しかし、不利な状況の中で、その勇ましい戦いぶりは長く天下に名を残すことになりました。誉田7丁目にある誉田史跡公園は、その墓と供養塔を中心に整備をおこなったものです。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-いち3

・・・まず、看板が史跡案内らしくなく、店舗看板風で古く目立たない。さらに、道の周囲が畑で農道のように狭く、本当にこれでいいのかと不安になってくるのです。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-いち4


・・・地図上では、道の太さや周囲の景色がわかりませんので、立派な史跡・美しく整備された環境をイメージしていると、ガッカリすることが多いものです。その逆に、あまり期待せず街道を巡っていますと、意外な出会いや発見があったりして、得したなあ・・・と思えるものです。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-いち5


・・・東高野街道沿いの駐車場の奥に見える「古墳」、標柱がなければただの小山にしか見えない。


(B)栗塚古墳/羽曳野市誉田6丁目

応神陵古墳の東側に近接して存在し、現在墳丘部分は「応神天皇陵古墳ろ号陪冢」として宮内庁の管理となっています。昭和63年(1988)に墳丘の西と南側の発掘調査が行われ、墳丘の規模や外部施設について多くの成果を得ることができました。その結果、墳丘の南西隅はすでに大きな削平を受けており、築造当初よりひとまわり小さくなっています。もとは一辺43m、高さ5mの二段築成の方墳で、墳丘斜面には葺石が葺かれていました。また外堤には、円筒埴輪列がめぐっていたことが確認されました。周溝内からは、奈良時代の土師器(はじき)や雨乞に使用されたと考えられる土馬、下層からは円筒埴輪や形象埴輪などが大量に発見されました。


※古墳の名称については「古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議」編集・発行の「古市古墳群ウォーキングマップ」にあわせています。