東高野街道(35) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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東高野街道(35)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-おんど1


まずは、旧植田家住宅横の「渋川神社」そして「渋川天神社」へ。


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町中に寺社や史跡が予想以上多く、目を楽しませてくれます。


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八尾と言えば・・・

■常光寺/八尾市本町5-8-1

常光寺の開創は古く、奈良時代の初め、聖武天皇の勅願で、行基菩薩が創建したと伝えられています。平安時代中期の寛治二年(1088)には、白河法皇が本尊・地蔵菩薩の霊験あらたであることを聞こし召されて、高野山に参詣のおりに当寺に参詣されたとのことです。その頃は新堂寺と称されていましたが、室町時代の初め康応元年(1389)足利義満が、当寺の住職・通玄和尚に『常光寺』・『初日山』の扁額を奉納されこの時から初日山常光寺と呼ぶようになりました。それより前、南北朝時代に、楠正成の家臣・八尾別当顕幸が、当寺にあって大いに南朝のために尽したそうです。その顕幸の墓は、現在も本堂横の墓地に残っています。伽藍はその後荒廃し再建されましたが、この付近は、江戸時代初めの元和元年(1615)『大坂夏の陣』の中心地となり、またもや戦乱に巻き込まれました。かし、この寺を以心崇伝が抱え寺としていてため、徳川家康が「寺を荒らすな」との制札を発して、心無い雑兵の乱暴を厳重に戒めたため、寺はなんの被害も受けませんでした。この戦いで藤堂高虎は、当寺の廊下で長曽我部家臣の首改めをしたとのこと。その廊下の板は、そのまま天井板に上げ今も残っていますが、一面に血の跡がしみついており、『常光寺血天井』として来訪者の目を見張らせています。そのとき討死した藤堂家家臣七一士の墓も、本堂後ろに並んでいます

「河内音頭のふるさと」八尾の夏は、市内各所に櫓が立ち、幾重にも広がる踊りの輪へと人々を誘います。なかでも常光寺に伝わる正調河内音頭は、室町時代、常光寺再建の折に木材を旧大和川から運んだときに歌われた木遣り音頭がルーツと言われています。流し節とも言われ、ゆったりと語りかける情緒あふれるその音頭は、現在ではここ常光寺でし か聞くことができません。



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八尾天満宮

八尾寺内町の鎮守で「八尾の天神さん」といわれる。祭人は天穂日命(あめのほひのみこと)と菅原道真で、慶長年間に片桐且元(かたぎりかつもと)が創建したといわれている。中門は寺内町の木戸門を移建したものと伝えられ、また境内には寺内町開発者森本行誓の六代の孫房吉寄進の灯篭がある。近年は恵比寿神をまつり、一月八日は例年「八日戎」としてにぎう。


八尾御坊・大信寺八尾市本町4-2-48

顕証寺を中心とする久宝寺寺内町から分かれ、八尾寺内町の中心寺院となったのが、江戸時代初め、本願寺教如によって創建された八尾御坊・大信寺でした。大信寺の伽藍の構成や建物の様子は、河内名所図会で詳しく描かれています。伽藍には、右手奥の本堂のほかに、京都・伏見城より移されたという太鼓楼や、成思庵という茶室、対面所、大玄関、庫裏、表門、長屋門など多くの建物で構成されていたことが分かります。本堂は、江戸時代の半ばを過ぎた明和4年(1767年)に再建されたものです。しかし、その本堂は、天明8年(1788年)の大火で焼けた東本願寺の御影堂の仮御堂として京都に移築され、八尾に再び建てられたのは、およそ10年後の寛政11年(1799年)です。名所図会の刊行が享和元年(1801年)で、まさに本堂が再建された直後の姿を正確に描いたと考えられます。その後、明治2年(1869年)の1月から8月までの堺県に編入される短い間ですが、「河内県庁」が大信寺の境内に置かれました。県庁跡は、現在、府指定史跡になっています。そして、昭和28年(1953年)、白アリの被害により本堂が倒壊したため、昭和42年(1967年)に現在の鉄筋コンクリート造りの本堂に再建されました。江戸時代、立派な伽藍を持った大信寺の姿は、河内名所図会でしか見ることができませんが、現在の姿に至るまで長い歴史の物語を重ねてきた寺院です。


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久宝寺寺内町

室町時代から戦国時代にかけて、蓮如上人が親鸞聖人の教えを人々に説き、本願寺の興隆の礎をつくりました。久宝寺村で布教し、その盛況な様子は「帰するもの市のごとし」と伝わっています。蓮如上人は、久宝寺御坊として現在親しまれている顕証寺の前身、西証寺を建立しました。その後、蓮如上人の息子実順や蓮淳によって、久宝寺寺内町が整えられていきました。久宝寺寺内町は大阪府内有数の規模を誇り、現在も白壁や『むしこ窓』、碁盤の目のような路地など伝統的な町並みがいにしえの風情を偲ばせます。久宝寺寺内町内にあるまちなみセンター(寺内町ふれあい館)は、久宝寺寺内町の歴史的遺産の継承と八尾市のまちづくりについての地域活動の拠点です。八尾市には、久宝寺寺内町のほか、八尾寺内町、萱振寺内町があり、つもの寺内町が残っているのは大阪府内でも貴重な存在です。


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・・・最後は、やっぱりカエルと出会いました。


■許麻神社/八尾市久宝寺5-4-8

許麻(こま)神社の創立は不詳であるが、「延喜式」神名帳には小社に列せられており、今から1100年以前より存在していた由緒ある神社で、江戸時代には「久宝寺の牛頭天王」と呼ばれていた。許麻は高麗に通じ、この地は古くは「巨麻荘」または「許麻荘」といい、高麗からの渡来民族が多く住み着いていた。彼らが祖霊として祭祀したのが、後に神社として祀られ、社名に「コマ」が残ったと思われる。また、かっては、この神社と同じ敷地内に「久宝寺観音院」が宮寺としてあり、この寺の創建は聖徳太子が建立された「久宝寺」に遡るが、戦国時代、松永弾正久秀の兵火に罹り、灰燼と化した。幸い、聖徳太子自作と伝わる本尊の11面観音は難を逃れ伊賀の国に疎開したが、紆余曲折を経て、現在は同じ久宝寺町にある、念仏寺に安置されている。久宝寺観音院は1677年(寛文7年)再興されたが、明治初年の神仏分離により廃寺となった。久宝寺が1667年(寛文7年)に再興された時の「鐘楼」は神社の「手水舎」となって保存されている。