東高野街道(28)
「八尾飛行場」のことを調べていたら・・・
■掩体壕(えんたいごう)
八尾市垣内には、大阪府唯一の掩体壕が残っています。この掩体壕は、八尾にあった陸軍航空隊大正飛行場(現:八尾空港)の掩体壕として、1943年(昭18年)頃に建設されたそうです。建設の詳しい経緯は不明ですが、当時の 大正飛行場は陸軍航空隊の第11飛行師団が置かれた実戦基地であり、近畿・中国・四国の防空を担っていました。そのため、連合国軍の攻撃を真っ先に受ける場所だったため、貴重な戦闘機を攻撃から守るために建設されたのでしょう。
建設予定地の農地は強制的に買い上げ(接収)されたそうで、多数の地元住民を始め朝鮮人労働者が建設に従事したとのこと。建設された数は不明ですが、聞く所では現在の大阪府八尾市垣内地区~恩知地区にかけて、コンクリート製や木造(?)の物を含めて4~6つほどの掩体壕があったそうです。戦後になって用地が返還されると掩体壕は撤去されたそうですが、一部はそのまま残って農機具を入れる倉庫代わりに使用されていました。しかし老朽化や宅地開発などが進んだため、年々その数は減って行き、時点で残っているのは、この掩体壕ただ1つだけとなりました。場所は離れますが、現在の八尾飛行場の南東付近一帯(八尾市太田新町9丁目付近~西弓削町付近)にも掩体壕が12基あったそうです。こちらは滑走路のすぐ近くとなります。1963年(昭38年)頃の地図には掩体壕を示すマークがあり、少なくてもその頃までは存在していたことになります。ただ現在は、付近一帯は工場や運送会社事務所、宅地と化しており掩体壕は跡形もなく消失しています。
早速、本も購入しましたが、何度も往復している「東高野街道」沿いにあるのですから、ぜひ実物を見たい・・・と出かけました。
個人の農地ですから迷いましたが、持ち主に許可をいただいて撮影させていただきました。私のように興味を持たれた方々が何度もお邪魔しているようで、若干迷惑そうにされていました、すみませんでした。
・・・しかし、こんなに巨大なものだとは思いませんでした。やっぱり実物を見なければと思います。私のような者が増えると迷惑がかかりますので、なんとか行政や地元有志で「見学会」のような企画をするとともに、所有者の方との話し合いをぜひ進めてほしいと思います。価値ある遺跡や戦跡を後世に正しく残してもらいたいと強く思います。
これも・・・貴重な史跡です。
■近鉄・道明寺線
現在の南大阪線が完成した後、太平洋戦争中にいくつかの鉄道会社による合併がくり返され、1944年(昭和19年)6月についに近畿日本鉄道が誕生します。敗戦の1年余り前のことでした。ここに初めて近鉄の南大阪線・道明寺線・長野線の名が登場したのです。戦後の1947年(昭和22年)3月、戦時中に合併していた旧南海鉄道の事業が近畿日本鉄道から分離して、高野山電気鉄道に譲渡され、南海電気鉄道として発足します。その後近鉄は、奈良電気鉄道・信貴生駒電鉄・三重電気鉄道などを合併し、日本の私鉄の中で最長の営業路線を持つ大手私鉄会社となりました。かつて明治の世に、南河内地域の人々が近代化への発展の期待を持って祝った道明寺線の誕生でしたが、それを実現した河陽鉄道の名を今に残すものがあります。上の写真にも写っている大和川鉄橋の橋梁です。橋梁側面の数箇所に、イギリスのコクレーン社が河陽鉄道の発注で製造したことを示す銘板があり、「COCHRANE & Co KAYO.RY DUDLEY ENGLAND」と記されています。110年以上経った今も道明寺線を支えているこの橋梁もまた、近鉄全線の中で最古の鉄橋というわけです。