東高野街道(12)
「東高野街道」が旧大和川(長瀬川)の東(山側)を北上しているのに対して、「奈良街道」は旧大和川の西(平野川)沿いを北上しています。
まもなく「三田家住宅」かなと思っていると、最初に目にとびこんできたのは「赤丸ポスト」でした。大歓迎を受けたような・・・気分です。
■三田家住宅
旧奈良街道に面し江戸時代は街道町として、また柏原船仕立て町として賑った今町にある町屋である。三田家の先祖は、寛永17年(1640年)に「柏原船」の船持ち「大阪十四人組」の一人として、大阪、伏見町から柏原に移住してきた。これは、江戸時代の元和6年(1620年)と寛永10年(1633年)に起こった大和川の氾濫により、柏原村が壊滅的打撃を受け、その復興救済の為、当事の代官「末吉孫左衛門」が柏原村の復旧、再生の策として、了意川に船を通わせようという計画が立案され、1636年(寛永13年)15名の商人と40艘の舟仲間でスタートさせた。また、1639年(寛永16年)には大坂の大文字屋七左衛門ら大坂組と呼ばれる14名の有力商人をこの柏原に勧誘した。大坂の伏見呉服町より、当地に引っ越してきた初代七左衛門は2艘の持ち舟でスタートさせたが、事業は順調に伸び、明治初年には持ち舟は19艘に及んだという。この初代七左衛門は三田浄久という名で知られた学者・文人で、『河内鑑名所記』の著者でもあり、井原西鶴や貞門第1人者の安原貞室らとの親交もあった。
三代目当主の時代、明和3年(1766年)から明和5年にかけて家の改築を行い、その姿が現在まで残っている。建物は、大きな土間と2列3室の床上部を持つ間口7間、奥行き6間の主体部に上手にザシキ、ツギノマ、下手前面に納屋、ザシキ背後に土蔵とクラマエが接続するという平面配置となっている。主体部以外は建築年代が少し下がると考えられる。主屋主体部の床上、下手奥の通常ダイドコロと呼ばれる部屋が後世2室に区切られている他はよく当初の形式が保存されている。また、この改築に際し普請関係の「文書」が数多く保存されている。「大工方左官屋根屋手伝諸事覚書」等の5点が「建物」と同時に、昭和44年国の重要文化財に指定されている。この文書には、大工、左官等の出勤簿から、工事に携わった延べ人数や建築に要した経費の明細等がこと細かく記録された、貴重な資料である。
■柏原舟・ふなだまり跡地
大和川水系に大洪水があり、甚大な被害が出たため其の復興の為代官末吉孫左衛門は大坂町奉行の内諾を得た上で大井村・柏原村の庄屋の協力も得て平野川筋の川浚えをし通船可能にして、舟は二十石積、長さ7間4尺5寸(12m)、幅7尺(2.1m)、深さ1尺4寸(0.4m)、底板横幅5尺8寸5分(1.7m)の浅川舟40隻を以て舟仲間を組織して積荷運送を始め、其の利益を水害復興資金に充てることとし柏原村古町の北に新町を開き其の南北の街道筋に舟持ち十五人の店を構えて営業を始めています。この寛永以降の柏原舟による荷物輸送は繁栄を極め大和川(長瀬川)の剣先舟までが参入し争いが絶えなかったといわれています。しかし宝永元年の大和川付替で大和川筋の剣先舟は新大和川を運行するため大坂へは迂回航路となり、柏原舟は最短コ-スの有利性からますます繁栄するものの大和川の付替で平野川は青地樋他2樋からの水のみとなり水量の減退から積荷を減らさなければならなくなり、また川浚えも頻繁になり採算が悪化して次第に衰退することとなったようです。三田家の裏手を流れる平野川の畔には、柏原舟のふなだまり跡の石碑があります。埋めたてられられて、小さな児童公園になっています。付け替え後も物資の運搬などで航行は続きましたが、明治末期の鉄道開通(現在の関西本線)によりその歴史に幕を閉じたのです。
■平野川
柏原市古町の大和川右岸にある取水口(青地樋)を水源(一級河川の起点)として北流しています。大阪市城東区森之宮と城東区中浜の境界で第二寝屋川に合流します。了意川、百済川、河内川あるいは竜華川とも呼ばれていました。
かつては旧大和川(久宝寺川)から分岐し、ほぼ現在の流域に沿い、千間川(今川)、猫間川などと合流し、寝屋川に注いでいました。戦国時代以降は石山本願寺・大坂城の東側へ回り込み、外濠として機能していました。
大和川の付け替え以前は現在よりも幅の大きな川であり、江戸時代、元和(1615~1624)から元禄(1688~1704)にいたる間に、十数回に及び堤防の決壊などによる大水害が起こり、流域の柏原村も大きな被害を受けました。当時の代官・末吉孫左衛門長方は平野川に舟を通して物資を輸送させ、その利益を柏原村の復興にあてることを考えました。こうして「柏原舟」とよばれる物資運搬船が京橋と柏原を行き来するようになったのです。柏原舟の成功は、他の河川流域における水運を促すきっかけにもなりました。