東高野街道(5)
道明寺と言えば「天満宮」なのですが・・・
■道明寺粉
水に浸し蒸したもち米を干して粗めにひいた食品。乾飯や煎り種の一種。道明寺で最初に作られ、保存食として使われたのが起源とされる。糯米を水に浸し、吸水した後水を切り、古くは、釜の上にせいろを置いて、下から火をたいて蒸した。その蒸し上がった物を天日にさらして乾燥させて、干し飯として保存した。現在では、乾燥機で乾燥し、荒く砕いて篩で粒を揃え「道明寺」という商品としている。種類は、荒い方から、全粒粉、2ツ割れ、3ツ割れ、4ツ割れ、5ツ割れと用途に応じて使い分ける。主な用途は、おはぎ、上方風桜餅である。
■道明寺
藤井寺市にある真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師氏の根拠地であった。道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。
この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。1575年(天正3年)には、兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興。1872年(明治5年)の神仏分離により道明寺天満宮境内から現在地に移転した。
「天満宮」と「道明寺」の間の道が「東高野街道」である。さらに北へと進む。
近鉄南大阪線の踏み切りを渡って・・・
■國府八幡神社
伝承によれば、近世の初期に壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まったとされています。藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社の四社です。国府八幡神社の祭神は、他の八幡神社と同じ八幡大神(応神天皇)が主神で、春日大神・住吉大神があります。1907年(明治40年)12月23日に、他の数社とともに北隣りの北條村にある式内社の黒田神社に合祀(ごうし)されました。この合祀は、前年の明治39年に出された勅令によって進められた神社合祀政策の一環でした。明治末期の神社合祀政策は、地方自治政策の中に神社中心体制を盛り込むために神社の数を減らし、神社への公費の支出をしやすくするというものでした。こうして一度は消えた国府八幡神社でしたが、戦後の1946年(昭和21年)6月2日に黒田神社から元通りに複社し、現在に至っています。現在は国府地区の氏神として、毎年10月9日に例祭がおこなわれていますが、もとは旧志紀郡国府村に属す元村社でした。本殿は江戸中期の建造とされています。拝殿には万延元年(1860年)の棟札がありましたが、最近修復されて新しい拝殿となっています。鳥居も江戸中期の享保5年のものでしたが、1979年(昭和54年)に解体保存となり、新しい今の鳥居が建てられました。境内には、江戸期の石燈籠がいくつかあります。
北側に隣接する潮音寺は、明治初年の神仏分離までは、当神社と一体の神宮寺であったと思われます。