東高野街道(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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東高野街道(4)


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この地図を見ても通り過ぎてしまうかも・・・


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薄田隼人正兼相の墓誉田史跡公園

元和(げんな)元年(1615)、大坂夏の陣の際、徳川家康らの軍勢が攻める大坂城で、秀頼(ひでより)とその母、淀殿は自害し豊臣氏は滅びました。このとき、誉田、藤井寺市道明寺付近一帯は、大坂城をうかがう徳川方と、それをはばむ豊臣方とが激しく戦う「道明寺合戦」の舞台となりました。秀頼に仕える薄田隼人正兼相は誉田八幡宮付近の誉田林に陣をかまえていましたが、奮戦の末に討ち死してしまいました。しかし、不利な状況の中で、その勇ましい戦いぶりは長く天下に名を残すことになりました。誉田史跡公園は、その墓と供養塔を中心に整備をおこなったものです。


・・・「史跡公園」だからといって開けた場所にあるわけではない。


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【参考】大阪市天王寺区 増福寺に建つ薄田隼人正の墓は、隼人の6代目の孫に当たる薄田兼実が1814年(文化11年)200年忌の追善供養に建立されました。墓石の側面には隼人の経歴とこの墓を建てた経緯が刻まれており、それによると彼は山城国の人となっています。薄田隼人正(隼人)は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣では侍大将に任じられた武将ですが、その前半生の経歴は詳らかではありません。名は兼相で、隼人正は通称名です。無類の酒好きと伝えられ、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では、博労ヶ渕の砦(現大阪市西区立売堀6丁目あたり)に立てこもり、木津川を上る徳川の軍勢を散々に打ち破り名を挙げましたが、大勝利に酔い側近を引き連れ新町の色里に入り浸っているすきに、博労ヶ渕の砦を奪われ『橙(だいだい)武者』と評されましたが(橙武者のいわれは諸説ありますが、橙は大きい割には中身はまずい。見掛け倒しであるというところから付けられたというのが一般的です)、1615年(元和元年)の夏の陣では東西両軍が相まみえた5月6日の道明寺の戦いで後藤又兵衛、塙団右衛門など共々奮戦し、討死しました。講談本「立川文庫」のヒーローの一人である豪傑『岩見重太郎』のモデルと言われています。


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岩見重太郎諸国を巡歴していたころ,丹後の天橋立で仇討の助太刀をした話、信州松本在吉田村で甲羅を経た狒々(ひひ)をひとりで退治してみせた話、河内国丹南郡葛城山の山中で山賊退治をしたなどが真偽とりまぜて多くの講釈草双紙立川文庫大衆演劇の紹介するところとなりヒーロー化されています。


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・・・「天橋立」も久しぶりに行ってみたいなあ。


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・・・脱線、寄り道ばかりですが、とにかく街道を北に向かいます。