東高野街道(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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東高野街道(3)


「蓑の辻」で「竹内街道」と「東高野街道」が交差するわけですが、地図を見ると、当然のように多くのお寺や神社があります。


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主な寺社については、これまで紹介してきましたので、今回は抜けていたお寺について・・・


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真蓮寺

寺伝によれば、もとは蓮花台寺と呼ばれる真言宗の寺院でしたが、暦仁元年(1238)、親鸞が 磯長聖徳太子廟参詣の途中にこの寺に寄宿したおりに、時の住職覚円が聖人に帰依し、善念坊の法名を与えられて浄土真宗に改宗したと言われています。その後、南北朝時代の戦いにより焼失しましたが、弘和3年(1383)三世覚行が再興し、覚如上人より真蓮寺という寺の名前をいただきました。この寺は、古市の西念寺、西浦の覚永寺、蔵之内の元勝寺、誉田の勝光寺とともに「河内五ヶ寺衆」と称されていました。なお、明治時代には寺の一角が、古市郡の役所として利用されていました。


西念寺

鎌倉時代に創建されたと伝えられていますが、天正年間の兵火に遭って焼失してしまったのだそうです。現在の本堂は、江戸期の宝暦8年(1758年)に再建されたものだといわれています。西念寺には、珍しい『亀石』の伝説があります。

【亀石伝説】

第45代聖武天皇の時代の神亀6年(729年)に、古市で甲羅に『天王貴平・知百年』の文字が刻まれた珍しい亀が発見されたのだそうです。聖武天皇が縁起が良いと喜ばれ、やがて年号は天平に改められたと伝えられています。この亀を見つけた者達は、天皇から多くのほうびや位階を授かり、古市郡の村人たちは1年間粗税を免除されたのだそうです。村人たちはこれを記念して『亀石』を造り、地中に埋めたと伝えられています。昭和54年に西念寺は改修されたそうですが、その時池の底から亀に似た石が発見されたといわれています。その『亀石』は、現在池の中央に安置されています。


■長円寺

文献によると江戸時代のはじめの寛永9年(1632)3月に、孝順という僧によって開かれた浄土宗の寺です。当時江戸幕府は、切支丹禁制であったことから宗門改めの寺請制度が実施され、これにもとづいて長円寺が壇那寺として開かれました。現在、本堂・庫裏(台所)・門・観音堂・地蔵堂があり、本尊は阿弥陀仏がまつられています。また、平安時代初期に作られた「十一面観音立像(重要文化財)」が観音堂に安置されています。観音像は、桧材の一木彫で、顔や体格は豊満に造られている。右手は垂れ下げて、「与願印」を示し、左手には水瓶をもっています。頭上にある十一面の小像は本像の頭髪と美しい輪郭で区切られています。


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さらに、誉田八幡宮で紹介してこなかった内容として・・・


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誉田林古戦場址

誉田八幡宮の付近は、南北朝から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったところである。すなわち、南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の間で合戦が行われ、室町中期の享徳年間には畠山政長と義就の間で再三にわたり誉田合戦が行われた。すこし降って、永正元年(1504)には、前記の孫に当る畠山植長(たねなが)と義英との間で合戦のあとで和議となり誉田八幡宮「社前の盟約」が結ばれたのもこの境内であった。大阪夏の陣の折には、大阪方の武将薄田隼人正もこの境内に大陣を置きこの地より出撃して道明寺近辺で、討死をとげたのである。


・・・ということで、誉田八幡宮から少し行ったところにある「薄田隼人正の墓」へ。(とてもわかりにくい場所です)