予言(7)
寺山修司さんの人生は他ジャンルへの越境の繰り返し、そのスタートが、「俳句から短歌へ」。全国の俳句少年に、高校卒業間近に次のような手紙を書いている。
十代ばかりの爆弾的なグループを結成して俳句史に残る運動をしよう。
僕の俳句観
私小説性を排してモチーフの範囲をひろげること
インスピレーションは待つものではなくて、自分で導かなければならない
いかにも、寺山さんらしいアジテーションである。しかし、こんなに熱い俳句熱を持っていた寺山さんがなぜに一夜にして俳句を捨て、短歌に向かったのだろうか。
早稲田大学に入学した寺山さんは、中城ふみ子の短歌「乳房喪失」に感動し18歳で短歌に転向する。中城さんは「乳房喪失」発表から4ヵ月後に死んでしまう。1954年春、中城ふみ子・編集者の中井英夫、そして寺山修司の一瞬の交差は、奇跡でありながら、まるで予言されていたかのような出来事でもある。
寺山さんが、俳句には無く、中城さんの短歌に見出したものは、圧倒的な「物語」ではなかったか。中城さんが描く「物語」には、甘美な「虚構」の誘惑も存分に含まれており、寺山さんをその後の変遷へとかりたてていく。「俳句」→「短歌」→「詩」→「ドラマ」→「演劇」、虚構の魔法がちりばめられていく。その引き金こそが、中城ふみ子なのである。そして、編集者:中井英夫が選び、捜し出した寺山の受賞作「チエホフ祭」(原題「父還せ」)50首が、中城さんに続く第二回「短歌研究」新人賞を受賞。中城さんに引き続き、寺山さんの受賞作も大批判を受けた。ただし、寺山さんの場合は有名な俳句からの”盗用”も大きな問題となったのである。今風に良く言えば、リミックスなのだが、当時はそういう言葉も概念も無かった。このことを述懐して、歌人の岡井隆さんは、「盗まれた方が負けなら、それだけのこと」と、言い放っている。
・・・「パクリ」ではなく「リミックス」なら聞こえはいい。それにしても、岡井隆さんの言は「そのとおり」である。
■中城ふみ子(1922年11月15日〈戸籍上は25日〉 - 1954年8月3日)
北海道河西郡帯広町(現、帯広市)出身。北海道庁立帯広高等女学校(現北海道帯広三条高等学校)、東京家政学院卒。池田亀鑑の指導を受けて短歌を始める。本名、野江富美子。妹の野江敦子も歌人。中城は離婚した夫の姓。戦後の代表的な女性歌人の一人で、後進に大きな影響を与えた。
1942年に結婚。3男1女を出産。1951年に協議離婚。1952年、乳がんのため最初の手術を受ける。1953年、『潮音』同人になる。1954年4月、第1回『短歌研究』50首詠(後の短歌研究新人賞)応募作が編集者中井英夫に見出されて特選になる。同年7月1日、川端康成の序文を付けた第一歌集『乳房喪失』刊行。同年8月3日、病死。
作品の主要テーマは恋愛と闘病である。大胆な身体描写、性愛の表現は、当時の歌壇では賛否両論であった。評者の道徳観を押し付けるような作品批判を受ける一方、五島美代子、葛原妙子、長沢美津ら、『女人短歌』(女性歌人による超結社集団)のメンバーからは擁護された。近年は我が子をテーマにした歌も注目されている。また、表現技法の点では、葛原や森岡貞香からの影響が指摘されている。ふみ子の生前に病室を訪れて取材した時事新報記者若月彰によって、1955年、評伝『乳房よ永遠なれ』が書かれ、10万部が売れるベストセラーになった。同年中に、この評伝を原作とする映画『乳房よ永遠なれ』(日活、田中絹代監督、月丘夢路主演)が制作、公開され、ふみ子の名は広く知られることになった。川端康成は小説『眠れる美女』にふみ子の歌を登場させ、渡辺淳一はふみ子をモデルにした小説『冬の花火』を書いている。
二十七年二月、左乳腺単純癌と診断される。四月、左乳房切断。五月、退院。
二十八年十月、右乳房へ転移した癌を手術。十一月、右側胸部を再手術。
二十九年一月、乳癌再発、左側胸部皮膚に転移、再手術のため札幌医大病院に入院。病状の進行につれ、痰や血痰がでる。ここにきてふみ子は死を意識したらしく、おもいたって歌に打ち込むことになる。折しも目にした雑誌「短歌研究」の第一回新人五十首募集に応募。四月、特選一席に「乳房喪失」と題され編集部(編集長中井英夫)選で入選。
失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ
受賞作掲載の同誌四月号が発売されるや、たちまち歌壇をあげての轟々たる反撃にあう。さらに五月、「短歌」六月号の巻頭に「花の原型」の題で五十一首発表。同誌には川端康成の同題の推薦文(ふみ子が直接に歌稿を送り依頼した)が掲載される。いきおいふみ子の名前は広くしられる。
七月一日、処女歌集『乳房喪失』を刊行。六日、時事新報記者、若月彰は、これを一読して大きく記事にするが、それだけでは物足らなくおぼえ、札幌の病棟へ駆け付ける。病人を励ましたいという強い一念で。
冷えしきる骸の唇にはさまれしガーゼの白き死を記憶する
八月三日、死去。「死にたくない!」と口にしつつ。享年三十一。
冬の皺 寄せゐる海よ 今少し 生きて己の無残を見むか
われに似し ひとりの女不倫にて 乳削ぎの刑に 遭はざりしや古代に
みづからを 虐ぐる日は声に唱ふ 乳房なき女の 乾物はいかが?
枇杷の実を いくつか食べてかへりゆく きみもわが死の外側にゐる
彼女の作品は、その類まれな歌の力を発見した全国誌「短歌研究」の編集長:中井英夫さんの努力で、「乳房喪失」と題する歌集として出版されることになる。しかし、そのゲラ刷りが届けられたのは彼女の死の僅か35日前のことであった。同い年であるその中井さんへ、彼女は次のような手紙を書いた。彼女の最後の手紙だとされている。
中井さん
来てください。きっといらして下さい
その外のことなど 歌だって何だって
ふみ子には必要でありません
お会ひしたいのです。
生き急いだ、すさまじい歩みの中で、ともすれば強烈な歌を中心に印象付けられ、泣かない女と思われている彼女ではあるが、この手紙には少女のような幼さと素直さが感じられる。中井さんからの返事は死の前日8月2日に発信された。その手紙を中城さんは読むことはかなわなかったが、「ふみ子」と呼びかけ、「小さな花嫁さんへ」との言葉で結ばれていたという。
・・・中城さんの歌集の表紙は「田中恭吉」さんの作品です。