萬国パクランカイ(7)
厳密な意味でのオリジナルは、この世に存在しない。あらゆる創作は、模倣の土台の上に成立している、と言い換えることもできる。
■板倉聖宣「模倣と創造」(仮説社)
「模倣が創造をよそおうとき、はじめてそれは盗作となる。本来、模倣そのものは決して恥ずべきことではないのである。ところが、日本では模倣があまりにもいやしめられ、創造ばかりがもてはやされるものだから、多くの人々は模倣を創造と気取るようになる。そこで盗作が横行するというわけである。もともと科学における創造というものは、模倣を前提に成り立つものである。創造は他人の研究成果の模倣の上に立って行われるというだけでなく、創造は他の人々が模倣するにたるような新しい知識の提供を目指すものだからである。」
「よく夏休みなどに、何でもいいから自由に研究してきなさい、などという『自由研究』の宿題が課せられることがある。そんなとき『真似より自分で考えることが大切なんだ』などと強調すると、困ったことになる。・・・多くの子供は親に考えてもらったり、本を見てヒントを得てやっとなにかを始めることとなる。ところが、先生は『自分で考えてやってこい』と言ったことを気にする子供はそこで嘘をつくように追い込まれてしまう。・・・そういう研究物を大いにほめてしまったりすると、子供の心はさらに複雑になる。『真似しても、自分でやったようにすればバレないさ』ということになってしまう。」
■佐々木豊「泥棒美術学校」(芸術新潮社)
「ヴァンダーリッヒに出会ってこれだと思った。・・・画家の一生のうちには白いキャンバスを前にして、何をどのように描いていいか、とまどうことがある。ヴァンダーリッヒに出会ってからは、その迷いが無くなった。・・・他人の作品から想を得て描いた画家といえばまずピカソがいる。なかでもマネの「草上の食事」をアレンジしてピカソが描いた絵は有名だ。そのマネも先人ジョルジョーネやラファエルロの絵からヒントを得て「草上の食事」を描いている。・・・ヴァンダーリッヒという絶好のお手本。ヴァンダーリッヒの模倣だという雑音には一切耳を貸さなかった。・・・模倣がなぜ悪い。ピカソでもロートレックの模倣から出発したではないか。梅原はどうか? 初期作品はルノアールそっくりじゃないか。模倣したくなるほど惚れ込めるのは、こちらに呼応するなにかがある証拠だと開き直った。」
「模倣、大いに結構。だれでも模倣から出発する。・・・似てしまうのだけれど、いつか必ず親離れする時期がくる。・・・ピカソは古典的名画からの構図盗りに徹して数々の傑作をものにしている。ヴァンダーリッヒにしても、デューラーやマネから構図を拝借した作品を数多く描いている。こうして模倣と剽窃の弊害を引き算で消していくと、どうしたって自分自身の独自性が浮かんできやしないだろうか。誰にも何にも惚れ込めないことにこそ、絶望すべきだ。それは感受性の欠如に他ならないからだ。」
「ある日、世界美術全集のルネッサンス篇をめくっていたら、(セッチニアノの)母子像が目に入った。おや?どこかで見たことがあるぞ。ピカソだ。ピカソの絵がこの母子像を見ながら描いたことは確実のように思われた。この発見は胸をときめかせた。天才は霊感ではなく、ネタをもとに描くのだ。しかし、見落としてはならないのは、ただ模したのではなく、ピカソの思考がそこに表現しつくされているということである。」
「安井賞受賞後の田口安男氏をたずねて、僕の考えはさらに固まった。僕は確かこんな質問をした。“制作にあたって、資料に何パーセントくらい依存するか”田口氏のアトリエは、雑誌の切り抜き、自分の脳波のグラフ曲線、光弾性写真など資料の山に埋もれていた。そして自分の絵の構図は光琳の屏風絵から盗ったと平気で告白されている。たしか芥川龍之介の“侏儒の言葉”に“天才は我々凡人の手の届かないところに帽子を掛けている。もっとも梯子がなかったわけではない。・・・その梯子はどこの古道具屋にでも売っている。”模倣と剽窃の弊害を引き算で消した時、残るものは・・・・どうしたって自分自身の独自性・・・・なんとも示唆的であります。」