えへっ(20) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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井の中(3)



すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-かずさ4


水木しげるさんの妖怪の中に・・・


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「井戸仙人」というレアなのがいます。


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眼や口が井戸になっている・・・・


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■上総掘り

昔から水が少なかった千葉県上総地方で、明治20年から30年頃に確立された井戸の掘削技法です。道具として竹や木材を使うため道具の現地調達が比較的容易でした。また、少ない人力で深い井戸が掘削でき、費用が安くすみ、この地域に瞬く間に広がりました。現在、房総地域は水に困る事は少なくなりましたが、上総掘りの技術は海外で認められ、青年海外協力隊や国際協力事業団などの活動を通して、水不足に悩むアジア・アフリカの地域に広く取り入れられています。


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■冥界伝説・たかむらの井戸/たつみや章

あの世につながっているという伝説の井戸を探検にきた悟が出会ったのは、冥界に帰れなくなった迷子のおばけだった。


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■小野篁(おののたかむら)延暦21年(802年)~寿2年12月22日(853年2月3日))

平安時代前期の官人、学者、歌人。参議小野岑守の子。官位は従三位・参議。異名は「野相公」「野宰相」、その反骨精神から「野狂」とも。小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいる。若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し学業に励んだとされる。弘仁13年(822年)文章生に補せられ、大内記・蔵人を経て、天長九年(832年)従五位下に叙せられた。翌天長10年に仁明天皇が即位し、淳和上皇の皇子恒貞親王が皇太子になると、東宮学士に任ぜられた。承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使藤原常嗣の専断に憤慨しいさかいを起こし、病気と称して乗船を拒否(遣唐使は篁を残して同年6月渡海)する。さらに、「西道謡」という朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪の上隠岐への配流に処された。のち承和7年(840年)2月許されて帰京・本位に復す。その後も蔵人頭・左中弁と要職を歴任。承和14年(847年)には参議として公卿に列した。仁寿2年12月(853年1月)従三位に叙せられるがまもなく薨じた。

篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都嵯峨の福生寺(生の六道、明治期に廃寺)と京都東山の六道珍皇寺(死の六道)にあったとされ、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。