黒猫のタンゴ(8)
■洲之内徹(1913年1月17日~1987年10月28日)
宮城県美術館では洲之内徹コレクション146点を収蔵しています。このコレクションは、洲之内さんが生前にお集めになった作品をまとめているものです。洲之内徹さんは、応召された戦地で田村泰次郎という作家と知り合いになりました。戦後、田村さんが「現代画廊」という画廊を始めた後に誘われてマネージャーとなり、田村さんがその画廊を手放した時に洲之内さんがそれを引き継いだのです。「現代画廊」という名前ですが、田村さんは、現代的な新しい画廊を運営するんだということを考えていたんだと思うのですが、洲之内さんはそうではなくて、むしろ日本の近代の絵画、あるいは自分たちの同時代の絵画の中でも、先端的なものよりは、洲之内さんの好みにあったものを並べたりしていました。コレクションは、大きく分けると2つのグループがあります。一つは松本竣介とか萬鉄五郎とか、戦後になって改めて評価されるようになった画家たちです。今では、どこの美術館でも収蔵品として出しているような作品ですが、戦後に評価されるようになった画家たちで、その評価の一端を洲之内さんも担ったという面があります。例えば、昭和26年に神奈川県立近代美術館ができ、さかんにそういった画家たちを取り上げて展覧会を行いましたが、館長だった土方定一さんとも洲之内さんは懇意にしていました。そういう意味で、初期の洲之内コレクションの作品は、今となっては、美術館でもなかなか手が出ない作品ですが、当時は洲之内さんが入手できた時代だったのです。もう一つのグループは、「現代画廊」で洲之内さんが集めた画家たちの作品です。集めたというと、洲之内さんがコレクションして集めたような感じがしますが、どちらかといえば手放さずにというか、手放せずにというか、大森の4畳半のアパートの押入れにずっとしまっていたという作品です。前者については土方定一さんに売れといわれても断り、「画廊なのになぜ売らないんだ」といって喧嘩になったという話も聞きます。そんなこんなで、洲之内さんが亡くなったときに、洲之内さんの手元にあった作品ということです。洲之内さんが亡くなった後に、ご遺族が、バラバラになるのが忍びないと考えておられました。宮城県美術館は何の縁もないのですが、一人の人間が集めたものが後世に残るというのはやはり良いことであろう、松本竣介や萬鉄五郎だけが抜き出されて大きな美術館に入るよりも、コレクション全体として、洲之内さんの息遣いが残るようになればいいと思って、お引き受けしたという経緯があります。
●洲之内さんが「もう絵ができているんだからください」と言ったら、長谷川さんは「まだ猫のひげができていない」と言う。猫がこんな形で丸まるのは年に春と秋の2回しかなくて、ひげがちょうどそういう形にならないと描けないんだからと言ったというのです。本当か嘘か分かりませんが、大変時間がかかって描いてもらったというふうに書いてあります。もう1匹猫の作品がありますが、それは両方ともひげがありません。雷に驚いて飛び込んできたときに、ちょうど雨戸に挟まって死んじゃったとかいったエピソードもあります。
■長谷川潾二郎(1904年1月7日~1988年1月28日)
その画家は一枚の絵を完成させるのにひたすら待った。愛猫が美しい毛並みをみせて心地よさげに丸まる初秋の日々を。土の色が美しく輝き、緑がもゆる春の日を。愛猫はひげを描けぬまま6年後に死んでしまったし、土の色には10年以上を要することもあった。こんな調子だからとにかく寡作。画家の名は、長谷川潾二郎。潾二郎は生前、ほとんど注目されることがなかった。描いたのは、自宅兼アトリエのあった東京・荻窪近辺の風景と静物画ばかり。そのうえ画壇からも遠く離れ、マスコミに取り上げられることも少なかった。その制作態度は極めて独特で、実物を目の前にしなければ描かなかった。だが、そうして完成した絵からは静謐(せいひつ)さの中にも夢幻的な美しさが漂う。近年、猫の絵を中心に徐々にその名を知られるようになり、画集の出版や初めての大回顧展が相次ぐ。猫の絵は今や猫を描いた日本絵画の最高傑作とまでいわれている。潾二郎はなぜ見なければならなかったのか。なぜ何年も待たねばならなかったのか。これまで多くが謎に包まれてきた。ところが近年、潾二郎が半世紀以上にわたり書きつづった日記、手記、デッサンの存在が明らかになった。そこから浮かび上がってくるのは、潾二郎が日常に潜む至高の美を見出し、その感動を画面に定着させようと苦闘を重ねる姿である。まるで一編の詩を、推敲(すいこう)に推敲を重ねて完成させていくような辛抱強い作業の果てに、自ら破棄してしまった作品も多い。「現実は精巧にできた夢である」という謎の言葉を書き記した潾二郎。ただひたすらに待ち、描いた画家である。
■秋野不矩(1908年7月25日~2001年10月11日)
1908年、静岡県天竜市に生まれ、1929年、京都に出て日本画を学びます。5男1女を育てながら作品を発表し続け、1948年、仲間と共に、「創造美術(現・創画会)」を結成、戦後の日本画の発展に大きな役割を果たします。1962年、日本画の客員教授として初めて訪れたインドでの体験が決定的な転機となり、以後、インドの風物を主題とした作品を描くようになります。インドの豊穣で過酷な自然と対峙して生きるもののたくましさや美しさをみずみずしい色彩とダイナミックな筆遣いで表現し、生命力あふれる独自の画風を作り上げました。悠久の時の流れを感じさせる大地、厳しい自然に生きる動物たち、敬虔な人々などを描いた秋野不矩の作品は、日常の喧噪の中で生きる我々が忘れがちな自然と人間との共存、生命の重さといった根源的な問いに立ち向かう契機を与えてくれます。
■加山又造(1927年9月24日~2004年4月6日)
日本画家、版画家である。1927年、京都府に西陣織の図案家の子として生まれる。京都市立美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。山本丘人に師事。1966年多摩美術大学教授、1988年東京芸術大学教授に就任。東京芸術大学名誉教授。日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現した。1997年文化功労者に選ばれ、2003年文化勲章を受章。





