えへっ(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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上村一夫(3)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ゆめ1


菊富士ホテル時代の夢二の姿を、のち夢二の熱心なコレクターとなる河村幸次郎が、神田猿楽町角の西洋美術書の専門店・南陽堂での、立ち読み仲間として記録している。ふたりとも、この店の常連で、週3回、「たいてい1時間半以上立ち見した」というから、当時この本屋は、アート好きにとって、美術館代わりだったのだろう。


☆ある日、番頭が「番茶が入ったから」と帳場に呼び、色の浅黒い先客を、夢二さんです、と紹介してくれたが、とうに顔見知りで、頭をさげながら、微笑しあったのだった。夢二は、礼儀正しいがむっつり、という印象、ただし、絵のことになると、よく話した。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ゆめ2


☆当時の現代作家についても、非常に勉強している、と、河村は感心している。好みはラファエル前派、それにムンク、ルドン、クリムトなどをあげたという。ムンクの「叫び」は、「叫び声がひびいて来るようだ」といっていた。夢二の『落日』と題された草画は、「犬の吠える声が寒い夕日に響きわたる」ような「きわめてムンク的描写」だ、と河村は書いている。


☆『黒船屋』の制作時期ははっきりしないが、早ければ大正8年(1919)、おそくても翌年、と考えられている。モデルはお葉だろうという。真に描きたかったのは彦乃だという人もいて、見る人の気持ちも、揺れるのである。

☆このころ、黒ネコと女、という組み合わせで、たくさんの作品がある。『女十題』の1枚は、柔らかいピンクのブラウスに、青いスカートの白系ロシアの女性が、やや小ぶりの黒ネコを抱いているものである。革命後のロシアから逃げた女性たちが、横浜本牧(ほんもく)のキヨ・ホテルあたりへ流れ着いて、いわゆるラシャメン(洋妾)になっていた。


☆西洋好きの夢二は、しばしば訪れて遊び、部屋からの眺めをスケッチしたりした。雑誌「小説倶楽部」1921年3月号の表紙絵は、夢二としては珍しい裸婦が、大きな黒ネコを抱いたもので、これら黒ネコたちは、まあ、どれも同じ後ろ姿のヴァン・ドンゲン猫だが、自伝『出帆』の中には、みごとなネコのスケッチがあるし、草画あり日本画あり版画あり、夢二のネコは、なかなかに種類が多い。有名な『黒船屋』の構図は十九世紀の画家キース・ヴァン・ドンゲンの『猫を抱く女』に強くインスパイアされたものでしょう。彼からはかなりの影響を受けているように私は見受けます。その後に描かれた多くの絵にドンゲンの片鱗を垣間見ます。そこまで彼が興味を抱いた理由は絵の様式や絵画的な魅力だけではないと思います。それはドンゲンの経歴にあるのではないでしょうか。


1877年に オランダのロッテルダム郊外デルスハーフェンに生まれロッテルダムの美術アカデミーで学んだ彼は、1896年に日刊紙のイラスト・レポーターとして働き港の風景や娼婦のデッサンなどをします。1897年にはパリの展覧会にはじめて出品をしますが、パリに転居後、絵は売れずに、運送、ペンキ職人の下働きなどを転々とした後、風刺新聞や雑誌『ラシェット・オ・ブール』『ルヴェ・ブランシュ』などの挿絵の仕事をします。その風刺的イメージが、軍隊や教会、資本家ついには1905年にフランスの官展であるサロン・ドートンヌに出品しその後はピカソらと親交を深め、フォービズム運動に参加し、一九二六年にはレジェン・ドヌール勲章を受賞するにいたります。最初はイラストレーターとして活躍し、港の風俗や下層にいる人間たち、はては娼婦をモデルにし、風刺新聞にコマ絵を描き、それによって告発を受けるという絵描きとしての目線と傾向が酷似していることに、夢二がドンゲンに対して抱いた共感を想像せずにはいられません。途中、いつしか芸術家として王道を歩むようになったドンゲンは、死後、その画家としての確固たる巨匠の位置づけをされました。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ゆめ3


2005年の夏、ロンドンのオークション・サザビーズでキース・ヴァン・ドンゲンの「Woman with Large Hat大きな帽子をかぶった女」(1906)が920万ドルで落札されました。2005年の為替相場で見ると対米ドルで平均110円ですから換算すると、10億1200万円ということになります。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ゆめ4


1913年、27歳の青年藤田がパリに入った時、街にははや秋の気配がただよいはじめていた。早速。ハリ一四区オデッサ街にある安アパートを借りうけると、もうじっとしていられない。街の通りに飛び出して商店のウインドを眺め、マロニエの並木道やその木陰に立つ広告塔や共同便所のパリの街の匂いを嘆いで興奮していた。着いてすぐのサロン・ドートンヌ(秋の画展)の初日にも出かけ、すでに夜のカフェで知り合ったロシア人彫刻家のメッシャニーフに誘われて、バン・ドンゲンの夜会にも行っている。当時バン・ドンゲンは、ピカソと並んで売り出し中の新進画家であった。金銭的に少し豊かであったドンゲンは、モンマルトルのおんぼろアトリエ付貸アパート「洗濯船」からピカソと一緒に足を洗い、新興の美術街モンパルナスに移っていたのである。その新アトリエでの夜会の騒ぎのひっちゃかめっちゃかさは、パリの絵描き仲間のうちでもセンセーショナルな話題になっていることを藤田も知っていた。藤田は「たのむ、ぜひ連れていってくれ」と出かけ‥ハリ・デビューの興奮の一夜を味わった。連れてゆかれたノートルダム・デ・シャンのドンゲンの画室にすっかり度胆を抜かれた。裸体画がどこもかしこも食堂の壁にも、廊下にも、寝室にも家中いたるところに描かれているのである。やがてみなが飲み、うたい、踊り、果てはお決まりの乱痴気騒ぎとなった。酔った連中が藤田に向かってしつこくこう迫った。「おい、伊達男、日本の歌をうたわんか」もはやこれまでと覚悟を決めた藤田はその場を逃げるようにして、しばらく画室の騒ぎから身を潜ませていたが、再び現れるや、なんとタオルでほおかぶりし、筋肉質の細い体には毛布をまとっていた。さすがにメッシャニーフも「これは一体なにごとならん」と驚いた様子であったが、やがて早口の口上で参加者たちに藤田を紹介した。一座のどよめきが徐々に静まった、その一瞬の間をとらえた藤田は突然、「アラ、エッサッサー」と、一声叫ぶと、まるで闘牛士のようにさっと毛布を払いのけ、タオルを縫い合わせた即製の姿フォルムで、スパッと裸身を現した。 この姿を見て、会場には驚きと爆発的な笑いの渦がたちまち巻き起こった。それをしてやったりという顔でながめた藤田は、今度は裸のまま手にした食器洗いをふりかざし、右に左に腰をふりながらジャポン伝統的庶民芸能〝ドジョウスクイ″を踊り出した。観客はむろんやんやの大喝采であった。


・・・藤田さんがパリに行って最初に知り合った画家がヴァン・ドンゲンであり・・・


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ゆめ5


多くの画家たちと交流を広げ、その中にマリー・ローランサンもいた。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-ゆめ6


上村一夫さんから、竹久夢二へ。そしてマリー・ローランサンとヴァン・ドンゲン、藤田嗣治さんへと・・・猫つながり。