スタードーム(17)
安藤忠雄さんの「グラウンド・ゼロ」プロジェクトが、イサム・ノグチの「幻の原爆慰霊碑」と重なって・・・
■2010年、65回目の原爆忌を迎える広島市に、彫刻家のイサム・ノグチ氏(故人)がデザインした原爆慰霊モニュメントの設置計画を約60年ぶりに復活させる話が持ち上がっている。原爆ドームに近い旧広島市民球場跡地が再開発されることを知った建築家の磯崎新(あらた)さんが発案。ノグチ氏と縁のあった日米の関係者らがチームを組み、同市に打診している。磯崎さんは「当時はイサムさんの国籍(アメリカ)が問題になったが、時代は変わった。核廃絶のシンボルにふさわしいものになるはず」と話している。ノグチ氏は昭和27(1952)年、広島平和記念公園の全体計画を進めていた建築家の丹下健三氏(故人)に依頼され、慰霊モニュメントの模型を制作した。黒御影石でできたアーチ型の記念碑と、階段で降りる地下の慰霊堂からなり、のちにノグチ氏は「埴輪(はにわ)から着想を得た」と記している。しかし、この案は最終的に却下された。磯崎さんによると、アメリカ国籍のアーティストが原爆犠牲者の慰霊碑をデザインすることに反対意見が出たという。結局、丹下氏自身のデザインによる慰霊碑が記念公園に設置された。この碑については、「過ちは繰返しませぬから」と刻まれていることが後に論争を招いた。ノグチ氏は1988年に亡くなるが、幻となったモニュメントを、「何とか実現させたい」と願っていたという。晩年に何度も相談を受けた磯崎さんは、旧広島市民球場が解体されることを知り、建築家の川村純一さんや造形作家の岡崎乾二郎さんら、ノグチ氏と縁のあった日米の関係者と建設プロジェクトを始動。失われた模型の再製作がすでにアメリカで始まっている。建設費は一般から広く募りたいという。今年度中に解体作業が始まる旧広島市民球場は、記念公園と原爆ドームを結ぶ軸線の延長上にあり、当初の設計意図を損なわずに建設することができる。磯崎さんは「当時の日米関係では無理だったかもしれないが、現在ならば可能なはず」と期待を寄せる。今年8月6日の平和記念式典(原爆死没者慰霊式)には、アメリカのルース駐日大使が初めて出席することも決まっている。広島市では「再開発の基本計画は決まっていて、設置場所については改めて市民の意見を聞く必要があるが、とても有意義なお話。正式に提案いただいたら検討したい」(担当者)としている。
まるでイサム・ノグチ・・・と錯覚に陥るモニュメントが沖縄にある。
■「平和の丘モニュメント」。2001年6月23日完成。デザインは福岡県の造形作家・藤波耕司さん。全体は地下と地上の二重構造で、アーチの高さは7.5メートル、幅10.6メートル。安定感のあるフォルムは「揺るぎない誓いの精神」を表現したという。黒御影石製のアーチは平和のくさび"で、彫像の中心には琉球石灰岩の要石を沖縄に見立てて配置した。下層部はガマ(自然壕(ごう))をイメージ。奥に進むと天井から「平和の光」が差し込む造りになっている。
■広島平和記念公園内に常設されている平和の鐘
毎年8月6日の平和記念式典で平和の鐘が鳴らされるが、これは1947年(昭和22年)8月6日第1回広島平和祭で初めて行われた。この初代の平和の鐘は式典後、現在の平和公園がある中島町内に設置されたが1951年(昭和26年)に盗難にあった。2代目の平和の鐘は、1949年(昭和24年)広島平和記念都市建設法公布を記念し広島銅合金鋳造会が市に贈与、この年の平和祭は基町の旧西練兵場跡地である市民広場で行われたためそこに設置し、同年の平和祭で鳴らされた。翌1950年(昭和25年)朝鮮戦争の余波で平和祭は中止、翌1951年(昭和26年)から平和祭は整備中の平和公園内で行われるようになったため、この鐘は使われなくなった。1951年の式典では初代の鐘が使われたが盗難にあったため、1952年(昭和27)から1966年(昭和41年)まで市内の寺院から鐘を借りて、式典で鳴らされた。これが3代目、4代目の平和の鐘にあたる。現在使われている平和の鐘は、1967年(昭和42年)建立の5代目にあたる。1996年(平成8年)、平和公園内の3つの鐘(平和記念式典で鳴らされ普段は広島平和記念資料館に展示している鐘・常設している鐘・平和の時計塔のチャイム音)の全体の音風景が、環境庁(現環境省)の日本の音風景100選に選定された。5代目の平和の鐘は、1967年香取正彦から寄贈された高さ77cmの鐘で、表面の「平和」の文字は吉田茂の書。1964年(昭和39年)9月20日原爆被災者広島悲願結晶の会により建立。設計は香取正彦。公園北側にあり、西側の道向かいに原爆供養塔がある。4本の柱で支えられたドーム型の屋根に、口径約1m×高さ1.7m、重さ約1,200kgの鐘が下がっている。鐘の表面には世界地図が浮き彫りにされ、撞座は原子力マーク、その反対側には、鏡が入れられている。周囲の幅2m深さ80cmの池には大賀ハスが植えられている。この鐘は訪問客が自由に打ち鳴らすことができる。
釣鐘・・・これもドームである。
■大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、大坂城が落城したあと徳川幕府の二代将軍秀忠は、西国・北国の諸大名に命じて大坂城を再築させ三代将軍家光のときに新たな大坂城が完成します。家光は、寛永11年(1634)に大坂城を訪れ、大坂城に入城しますが、このとき大坂の地子(土地にかかる税金)を永久に免除すると宣言しました。これに感謝した町民たちは時報の鐘を造り、これが鳴らされるたびに、感謝の念をあらたにしたので「仁政の鐘」とも呼ばれました。そして、この鐘楼は明治3年撤去されたのですが、釣鐘は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘」として保存されていた。昭和60年地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、日に3回鐘の音をひびかせている。現地の町名、釣鐘町もこれによるもの。
日本建築にはドームは無いのか?
■六角堂や八角堂は総称して「円堂」という。日本建築は木造のため、円形平面を造るのが困難なため、六角・八角で円形を象った。主に故人の冥福を祈るために建立されることが多いので、廟建築の影響を受けているとも考えられる。




