たっぷり羽曳野(2)
誉田八幡宮には特別な思いいれがあります。というのも、我が子たちが通った「誉田保育園」や「誉田中学校」が、すぐ横なのです。
誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。
天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。大和川、石川の流れる河内地方は、4世紀後半には日本と朝鮮半島と関係の緊張が高まるにつれて、瀬戸内交通の重要性が加わり、一層開発が進んだと考えられます。この機に有力氏族らに支えられた応神天皇は、河内地方を支配して、ここに新王朝を築かれたと思われます。秦の始皇帝陵などと共に世界でも屈指の大帝王墓-応神陵・仁徳陵-をはじめ、倭の五王時代の天皇陵はほとんどが、この河内、和泉地方につくられています。応神天皇の崩御に際して御陵がこの誉田の地に築かれたのは、このように天皇ゆかりの地であったことと、4・5世紀代におけるこの地方が、重要な位置を占めていた地理的環境によるものであると考えられます。また、応神天皇の頃は、大陸、半島からいろいろな文物が導入されて来ました。中でも当宮に伝わる、応神天皇陵陪塚丸山古墳出土の馬具(金銅製透彫鞍金具)に象徴されるように、当時の金工、木工、革工などの秀れた工芸技術は、後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。さて、応神天皇陵と誉田八幡宮のゆかりについては、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願によって社殿が建立されたと記すように、かなり古くからのことであったと考えられます。とくに、この誉田宮をはじめとして、月の岡、日の岡古墳のある若宮八幡宮(福岡県)、各地の大型前方後円墳と神社の縁起や、その関係はさらに古くからのことのようで、今後解明されねばならない問題を秘めているようです。(誉田八幡宮HPより)
誉田八幡から碓井神社に向かいます。
途中にあるお寺をのぞきますと・・・カエルがいました。
私の町会は「碓井」なので、この神社が氏神様ということになります。
■碓井八坂神社(うすいやさかじんじゃ)と史跡 井徳院址(いとくいんあと)
八坂神社は、もとは「井徳院(いとくいん)」と言われた奈良時代の寺の鎮守であったか、あるいは古市神社からの分社であると考えられ、延喜式神名帳にも記されていないので、創建はおそらく平安中期より以後と推定される。現社殿は西面のもので、祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)(牛頭天王:ごうずてんのう)となっていて、渡来系の神であることがわかる。現在の碓井地区の名称は古代にあった「清泉唯井(せいせんうすい)」の井戸から起こっている。碓井神社の東方50m附近一帯は奈良朝のころ僧「行基」によって創建されたという「井徳院(いとくいん)」があり、境内にあった碓型の井戸からは良質の清水が湧き出していたらしい。その水は萬病によく利くとのことで、遠方からも参詣者が多かったと伝えられている。その後、南北朝の騒乱で兵火を受けて消失し廃寺となった。