ぱくっ(82) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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絵道KAIDOをゆく(13)


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■長浜市元浜町「安藤家」(2)

木造2階建て延べ床面積約670平方メートルで、本館は1905年の建築で離れ座敷「小蘭亭」があり、名園・古翠園や魯山人の描いた天井画や襖絵が残る離れ「小蘭亭」は年4回公開、見学料別途200円が必要です。


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●北大路魯山人

長浜で魯山人の書や篆刻にいち早く惚れ込んだのは、紙問屋河路豊吉です。大正2年以降、新築まもない安藤家や向かいにあった河路家に逗留することになった魯山人は、号を福田大観と名のり数々の作品を残しました。魯山人は、書や篆刻、刻字看板などを制作して暮らし、安藤家にある「小蘭亭」の天井画や襖絵を描いたのも、この時期です。長浜時代に、魯山人の人生に転機が訪れます。少年期にその絵を見て感激し、画家を夢見たほどの人物、日本画壇の大家竹内栖鳳との出会いです。長浜市室町にある柴田源七家は栖鳳の古くからの知り合いで、栖鳳がたびたび訪れていることを知った魯山人は、柴田家の食客となりました。憧れの栖鳳が柴田家を訪れると、魯山人は款印を彫らせてもらえるように頼みました。それを気に入った栖鳳が門下の画家や友人にも魯山人を紹介したことで、篆刻師としての名声を高める大きな要因になりました。魯山人は大正2年から5年にかけて長浜や京都、北陸の素封家に食客として暮らし、美術骨董品に対する鑑識眼や、四季折々に口にする美食への見識を深めます。のちに開設する星岡茶寮の成功も、それらの経験によるものです。


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●竹内栖鳳(1864~1942)

元治元年(1864)京都に生まれ、伝統的な京都画壇に新しい画法を取り入れ、京都画壇の重鎮として活躍した。昭和12年には横山大観とともに第一回文化勲章を受ける。明治29年から翌年にかけて頻繁に長浜に逗留し、昌徳寺の襖絵を描き、大正6年8月から9月にかけて長浜、伊吹山方面に写生旅行に出かける。この時の写生の原画は長浜柴田家に長く存在していた。大正2年には長女園が、十代柴田源七の長男寅治朗に嫁ぎ、柴田家との親交は深く、当時長浜に逗留していた魯山人との交流は柴田・河路を通じて行われた。

●竹内栖鳳「観花(かんか)」

明治30年(1897)に日本美術協会に出品したが、同協会の出品拒否にあった作品。柴田源七が、俳人上島鬼貫の「煩悩あれば衆生あり骸骨のうえを粧て花見哉」の俳意に沿った作品を依頼し、栖鳳が作画したもの。栖鳳は、骸骨の描写に苦心して、京都府立病院にあった老婆の骸骨標本を借用し参考にしたと伝えられている。彼が新しい日本画を創造した時期に、柴田源七父子(9代目と10代目)と出会い、多大な影響と後援を受けた。


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●長浜市室町「昌徳寺」

女性で初めて文化勲章を受けた日本画家、上村松園の生涯をモデルにして描いた長編小説・宮尾登美子著『序の舞』。明治の初め女手一つで切り盛りする京の葉茶屋の娘、島村津也(上村松園)。母、勢以。最初の師匠で父とも慕う高木松渓。津也は、松渓と結ばれ、近江の坂本(大津市)でひっそりと出産します。


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さらに松渓とは画風を異にする西内太鳳(モデルは竹内栖鳳)に師事し、やがてその太鳳とも結ばれる。彼を追って長浜の昌徳寺までやってくる津也。激しい恋をしつつ、絵を描く誇りを失わず、より高い精神をのみ見て進んだ一人の女性の姿があります。


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■長浜市木之本町

古いたたずまいを残す琵琶湖の北東岸。南北約800メートルの街道沿いに、うだつや紅殻格子、細い竹を組んだ犬矢来が残る町家が軒を連ねる。かつては北国街道と北国脇往還の分岐点としてにぎわった。室町時代から昭和初期まで開かれたという牛馬市は、山内一豊の妻が夫のために名馬を買い求めた場所として有名。450年以上続く造り酒屋やしょうゆ店などの老舗が点在し、素朴な郷愁が漂う。裏通りにも風情があり楽しい。