大和棟(7)
■ウォーキング・トレイル事業
「歩いて楽しい道づくり」を目指し、国土交通省(旧建設省)が平成8年度から始めた事業です。 これにより、緑豊かな景観・自然、歴史的事物、文化的な施設等が結ばれることとなり、訪れた人々が快適に散策等を楽しめる地域が次々に誕生しています。
街道は古来より人や文化の交流の舞台となりました。市内にはいくつかの街道が通っています。その一つ、東高野街道は京都の東寺から生駒山のふもとの町々を通り、高野山への参詣道として栄えました。この東高野街道と、堺と大和・伊勢を結ぶ竹内街道が交差するあたりの古市周辺は、西琳寺(さいりんじ)の縁日にちなむ門前町として栄えました。特に、江戸時代中頃には代官所が置かれ、河内木綿などを運んだ「剣先船」の寄港地となるなど、南河内でも一、二を競う繁盛ぶりを誇っていました。羽曳野市では、古市古墳群をはじめとする数多くの歴史遺産の保全や、竹内街道・東高野街道等のウォーキングトレイル事業による歴史を感じる質の高い歩行者空間の整備を行なっています。
■蓑の辻
飛鳥(奈良県明日香村)と難波を結んだ日本最古の官道を土台に発展した竹内街道と、京都と高野山を結んだ信仰の道・東高野街道。いにしえの2本の道筋は、羽曳野市古市で交わる。「蓑の辻」。江戸時代に立てられたとされる交差点そばの道標に、その名が残る。碑には「左 大和路」「すぐ 高野山」とも刻まれ、旅人らを案内してきた。
楽しんで散策を趣旨とするウォーキング・トレイルではあるが・・・
「銀屋」は無くなっているし、この「蓑の辻」にあったレトロな「商工会館」は取り壊されてしまった。
■古市代官屋敷址
誉田の踏切を亙って100mほど、東高野街道東側に江戸時代の「古市代官屋敷址」があります。古市は、江戸時代石川流域の物資集散地であり、竹内街道・東高野街道が交差する交通の要地でした。そのため、江戸幕府は直轄支配地、いわゆる天領にし、「上方代官」と呼んで旗本クラスの人物を派遣、江戸初期から明治初期まで7回にわたって天領にしています。記録によると第一回目は寛永十一年(1634)より明暦元年(1655)まで、第二回目は寛文八年(1666) から翌九年まで、第三回目は456石分のみ寛文九年(1669)より宝永二年(1705)まで、第四回目は前記石分が享保十五年(1730)から延享三年(1746)まで、第五回目は全村千百二四石分が延享三年(1746)から宝暦六年(1756)まで、第六回目は宝暦九年(1759)から安永八年(1776)まで、第七回目は寛政二年(1790)から明治元年(1886)までとなっており、上記以外は大阪城代の役知(役務知行地、管理職手当)となっています。その最後の代官が旗本内海多治郎で、支配地石高一万二千余石にも及んでいたそうです。また、当代官所は河内長野にも関係のある天誅組関係者を取調べた所でもあります。その後、1990年に同代官所址の一郭が共同住宅建設工事にかかるため発掘調査が行われ、近世を中心とする時期の・遺物が検出されました。調査の結果によると、屋敷址と思われるは確認出来ませんでしたが、埋ガメ、石組土壙(どこう)・溝・井戸などの遺構が見つかり、井戸の中から徳川家の紋の三つ葉葵の軒丸瓦が出土、また鉄滓(てつかす)やフイゴの羽口が比較的多く出土していることや旧町名鍛冶町から製鉄関係の施設が存在した可能性が考えられます。
そして・・・現在は、住宅が建設されて羽曳野市が作成掲示していた表示板も撤去されて史跡も不明になっています。
なんともはや、寂しいかぎりです。
■西琳寺
飛鳥時代に渡来人の子孫が開いたと伝えられる。境内にある五重塔の土台となる心礎(28トン)は、法隆寺(奈良県斑鳩町)のものより大きく、同時代では最大。当時、「東西1町、南北2町」の寺領があったとされるが、戦国時代の混乱や、明治時代の廃仏毀釈(きしゃく)で寺の縁起などの記録はすべて失われ、詳しい歴史は謎に包まれている。廃仏毀釈後は小さなお堂となったが、地元住民らが守り続け、大正時代初め、愛知県の僧侶が高野街道からふと立ち寄ったのを機に復興した。
・・・こんな奇特な僧侶のような人があらわれて、消えゆく遺跡や歴史を復興・再興してくれないものかと、祈るばかりです。
「西琳寺」から少し奥に入ったところに、こんなおもしろい住宅が建っている。このような新しい建物と・・・
取り壊される寸前の廃屋や廃アパートと・・・
昔ながらの民家が渾然一体となっている町が、私の住む羽曳野・古市である。