イチジク(3)
イチジクの家紋を調べてみましたが・・・
イチジクが日本に入ってきたのは江戸時代・寛永年間(1624~1643)といいますから、それほど古い事ではありません。
当然、家紋はありません。それならば・・・と、オリジナル紋を作成することにしました。実際の葉は左右対称ではありませんので、画像を加工しました。そして・・・
イチジク第1号です。家紋がないのならと、外国の紋章も調べてみました。
やっと見つけたのが、バルバドスの国章でした。中央にあるのがイチジクの木です。どうして、あまり用いられないのでしょうか?
ヨーロッパでは、ギリシャ時代の裸体彫刻の恥部をいちじくの葉を模したもので覆うことが行われた時代がありました。
■フィレンツェ・アカデミア美術館所蔵のミケランジェロのダヴィデ像 。その石膏レプリカがサウス・ケンジントン美術館に運ばれたのは1857年のことである。ナショナル・ギャラリーが進めていた、ギルランダイオの絵画購入計画をトスカーナ大公が頓挫させたために、「お詫びに」トスカーナ大公からヴィクトリア女王に送られたのが、ダヴィデ像のレプリカだった。そして、有名なミケランジェロの彫像を見ようと行幸したヴィクトリア女王は裸体の生々しさに驚愕し、かような作品を展示することに意義を唱えた[図3]。即刻、ダヴィデの股間を隠すイチジクの葉の彫刻が誂えられ、皇族女性の来館の際に使われ続けた。現在は、ダヴィデ像から外されてガラスケースに収められ目の位置に据えられているので、案外、巨大な作品であることがわかる。現代美術としても通用しそうな、立派なイチジクの葉の彫刻である。説明文には「ダヴィデ像レプリカのためのイチジクの葉。1857年購入。皇族の女性の来館時にダヴィデ像に掛けられた。最後に使用されたのはメアリ妃(1867―1953)の来館時」と記されている。当時、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の石膏レプリカを独占的に手がけていたことから、ブルッチアーニの工房で作られたものだと思われている。つまり、このイチジクの葉は1857年に英国で制作された「オリジナル」な彫刻作品なのである。しかし、美術鑑賞上の重要性から考えると、巨大で有名なダヴィデ像のレプリカとイチジクの葉ではその価値の違いは明らかである。説明書きを読み落として、カースト・コートがレプリカの展示室であることを理解せずに、レプリカを本物だと思って、ダヴィデ像に感嘆している来館者を多く見かけるからである。股間を隠すイチジクの葉が「本物」であり、ダヴィデ像自体が「偽物」であることに注意が向けられるはずもない。ダヴィデ像のレプリカ自体をルネサンス彫刻の代替物としてではなく、それが作られるというコンテクストを踏まえると、それらは「本物」と「偽物」という平面上ではなく、イチジクの葉とともに、19世紀末の時代性を体現している作品だとも考えられるのである。現在ではダヴィデ像の後ろにひっそりと隠されるように展示されているイチジクの葉は、ヴィクトリア朝の過敏なセクシュアリティによって「芸術作品」に付加されてしまった「歴史の間違い」ではなく、19世紀という時代を考えさせ、「本物」とは「オリジナル」とは何かという問題を密かにはらんでいるのである。
さらに、ダビデとイチジクの関係を調べてみると・・・
■サムエル記上 第30章
1) さてダビデとその従者たちが三日目にチクラグにきた時、アマレクびとはすでにネゲブとチクラグを襲っていた。彼らはチクラグを撃ち、火をはなってこれを焼き、
2) その中にいた女たちおよびすべての者を捕虜にし、小さい者をも大きい者をも、ひとりも殺さずに、引いて、その道に行った。
3) ダビデと従者たちはその町にきて、町が火で焼かれ、その妻とむすこ娘らは捕虜となったのを見た。
4) ダビデおよび彼と共にいた民は声をあげて泣き、ついに泣く力もなくなった。
5) ダビデのふたりの妻すなわちエズレルの女アヒノアムと、カルメルびとナバルの妻であったアビガイルも捕虜になった。
6) その時、ダビデはひじょうに悩んだ。それは民がみなおのおのそのむすこ娘のために心を痛めたため、ダビデを石で撃とうと言ったからである。しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。
7) ダビデはアヒメレクの子、祭司アビヤタルに、「エポデをわたしのところに持ってきなさい」と言ったので、アビヤタルは、エポデをダビデのところに持ってきた。
8) ダビデは主に伺いをたてて言った、「わたしはこの軍隊のあとを追うべきですか。わたしはそれに追いつくことができましょうか」。主は彼に言われた、「追いなさい。あなたは必ず追いついて、確かに救い出すことができるであろう」。
9) そこでダビデは、一緒にいた六百人の者と共に出立してベソル川へ行ったが、あとに残る者はそこにとどまった。
10) すなわちダビデは四百人と共に追撃をつづけたが、疲れてベソル川を渡れない者二百人はとどまった。
11) 彼らは野で、ひとりのエジプトびとを見て、それをダビデのもとに引いてきて、パンを食べさせ、水を飲ませた。
12) また彼らはほしいちじくのかたまり一つと、ほしぶどう二ふさを彼に与えた。彼は食べて元気を回復した。彼は三日三夜、パンを食べず、水を飲んでいなかったからである。
13) ダビデは彼に言った、「あなたはだれのものか。どこからきたのか」。彼は言った、「わたしはエジプトの若者で、アマレクびとの奴隷です。三日前にわたしが病気になったので、主人はわたしを捨てて行きました。
■オスカー・ワイルドの墓碑
彼の墓はパリのペール・ラシェーズ墓地にあるが、アメリカ生まれのイギリスの彫刻家ジェイコブ・エプスタインが1912年に作成した墓碑の彫刻に男性器が彫られていたため、当時すでに時代遅れとなっていた法律(フランス革命暦1年=1793年作成)に基づき「墓碑の彫刻では股間をイチジクの葉で隠さなければならない。この彫刻は墓地の外に置く分には何ら法的拘束を伴うものではないが、墓地内に置くことは改修しない限りまかりならぬ」との司法判断を受けた。これに対しエプスタインやコンスタンティン・ブランクーシなどが反発し、ついに何ら改修を受けずそのまま設置の許可を取り付けたが、それまで彫刻を含む墓碑銘は覆い隠されていたという。
■オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde、1854年10月16日 - 1900年11月30日)は、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。耽美的・退廃的・懐疑的だった19世紀末の、旗手のように語られる。多彩な文筆活動をしたが、男色を咎められて収監され、出獄後、失意から回復しないままに没した。なくなった直後は別の墓地にとりあえずの埋葬がなされたようですが、友人の手により2年後にペールラシェール墓地へ移され、その数年後、有名なアメリカ人の彫刻家ジェイコブ・エプスタイン(Jacob Epstein)により現在の墓石が完成しました。
以上のことから考えるに・・・イチジクは紋章としてマイナスイメージが強いのでしょう。