さくっ(19) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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デュシャン考(1)


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私がデュシャン好きだということは以前から申し上げているところですが・・・まず「階段を降りる裸婦」の作品に強く惹かれました。この作品は・・・


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1872年、元カリフォルニア州知事リーランド・スタンフォードは、当時一般に議論されていた、ギャロップする馬の脚運びについて、4本全ての脚が地面から離れる瞬間があるという立場をとっていた。彼は友人との間でこれについて賭けをしており、最高で25,000ドルの勝負であったという話もあるが、確たる証拠はない。スタンフォードはマイブリッジに2,000ドルで写真の撮影を依頼した。


エドワード・ジェームズ・マイブリッジ(Eadweard J. Muybridge)は、イギリス出身の写真家。


1秒で約17メートル移動する馬の一瞬を撮影するためには、シャッタースピードは高速でなくてはならず、大口径レンズと高感度の感光材料が要求される。写真用レンズについては1843年にはフォクトレンダー父子商会から、ペッツバールタイプF3.7が販売されていたが、感光材料であるコロジオン湿板は感度が低く、晴天の日でも秒単位の露出時間を要した。彼は写真感度向上のための化学研究を行い、電気技師のジョン・D・アイザクスと協力して写真装置を制作、結局5年と5,000ドルを費やし、1877年の7月1日に一枚の写真を撮影、議論に決着をつけた。


この馬の撮影はそれまでヨーロッパの絵画表現において支配的であった、前足は前方に、後ろ足は後方にそれぞれ伸ばして走るというのが事実とは異なっていることを示しただけでなく、得られた連続写真を用いて動的錯覚をもたらしたことで、衝撃を与え、喝采を浴びた。まずゾエトロープと組み合わされ、次に幻燈機のように投影するための装置が作られた。図像がディナー皿程度の大きさのガラスの円盤の縁にそって並んでいるもので、ゾープラクシスコープと呼ばれた。 投影されたのは実のところ写真ではなく、写真をもとに描かれた絵であった。1879年にスタンフォードと友人らを相手に上映され、サンフランシスコで一般にも公開された。スタンフォードの出資により、パリとロンドンでの講演旅行も行われ、好評を博した。この連続写真を見たエジソンは大いに触発され、後に映写機キネトスコープを発明することになる。そして、キネトスコープはシネマトグラフにつながり、映画が誕生することになる。


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未来派Futurismo(伊)、Futurism, フトゥリズモ、フューチャリズムとは、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもので、20世紀初頭にイタリアを中心として起こった前衛芸術運動。この運動は文学、美術、建築、音楽と広範な分野で展開されたが、1920年代からは、イタリア・ファシズムに受け入れられ、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美した。


1909年にイタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ (Filippo Tommaso Marinetti; 1876-1944)によって起草された「未来主義創立宣言」がその発端である。よりセンセーショナルにするため前世紀の有名な共産主義者宣言に倣い、題名には「宣言」(Manifesto)が使われた。内容は前年に出版されたジョルジュ・ソレルの「暴力論」に影響を受けており、あらゆる破壊的な行動を讚美する非常に過激なものだった。未来派の思想は「未来主義」と呼ばれることもある。


未来派の代表的作家ウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni)は、マルクス主義者のアナキストだった。


さて、ボッチョーニの上から2番目の作品を変化させてみよう。横幅を圧縮すると下画像のようになる。


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デュシャンの作品に酷似していると・・・思いませんか?

このような背景からダダイズムの帝王デュシャンが登場したのでしょう。