ぎょ(719) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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■魚・文字絵


もじえ1


文字絵は朝鮮半島の民衆的絵画です。 民画のことを韓国では生活画とも呼び、中国の故事などをもとに文字を絵画化したり文字の中に物語を入れるなどして、儒教を子供たちに教育するためにも使われました。きわめて興味深い民画の一領域です。


もじえ2


この「孝」の絵には、よく竹筍と魚が描かれていて、中国の故事にある親孝行の有名な話を絵文字化したものと言われています。絵は、何かを表現するものです。しかし、描いていくうちに、作品の細部や技巧などに因われて表現するものが見失われた絵が案外多くあります。


もじえ3


李朝の無銘の画家たちは自分の目的意識の表現に力を注ぎ、作品の細部や作家としての技巧にはあまり関心を持っていませんでした。そして、絵の置かれる場や見る人に抵抗なく融け込める開放的な絵に仕上げようと努めました。李朝の民画が一見素人っぽく見えるのは以上のような理由によります。西洋では近代になりピカソなどが意識してこれを行ないました。一方、李朝の民画においては、長い伝統の中で無意識的にこの独創的な方法が培われたのです。


もじえ4


■二十四孝(にじゅうしこう)は、中国に於ける孝行が特に優れた人物二十四名を賞して、後世の模範とした物である。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、親孝行を美徳且つ当然の行いとして治世に活かした。


もじえ5


■王祥

王祥(おうしょう)は母を亡くした。父は後妻をもらい、継母からひどい扱いを受けたが王祥は恨みに思わず、継母にも大変孝行をした。実母が健在の折、冬の極寒の際に魚が食べたいと言い、王祥は河に行った。しかし、河は氷に覆われ魚はどこにも見えなかった。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が二匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行の為か、王祥が伏した所には毎年人が伏せた形の氷が出るという。得た魚の名は王祥の話には書いてありませんが、中国では単に魚という場合は第一位の魚である鯉を指すといいます。


もじえ6

歌川国芳の浮世絵の中にも登場します。


もじえ7

王祥
繼母人間有 王祥天下無 至今河水上 一片臥氷摸 晉朝時有一姓王名祥之人、早年喪母、繼母朱氏並不慈愛、常在其父面前數説王祥之是非、因而失去父親之疼愛。繼母朱氏時常欲食鯉魚、但因天寒河水冰涷、無法捕捉、王祥乃赤身臥於冰上禱告、忽然間冰裂、從裂縫處躍出兩尾鯉魚、王祥喜極、持歸供奉繼母。


もじえ8

親孝行は布の絵柄としても用いられていました。


もじえ9

山車などの彫り物としても登場します。


もじえ10

■孟宗

孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍がある筈も無い。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっと言う間に雪が融け土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。これも深い孝行の思いが天に通じたのであろう。(孟宗竹の語源と言われる)


もじえ11

■だがこの孝子たち、江戸時代の日本人には落語のネタにされるなどさんざんだ。井原西鶴は雪中に筍が欲しければ八百屋で、鯉(こい)なら魚屋で手に入ると書いた。親孝行はごく普通に家業で稼いだお金で行うものだという。